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45.焦燥



セオドールが屋敷を去った後、オルディス侯爵邸の廊下には、いまだに氷の気配がまとわりついたかのような冷たさが残っていた。


その空気を嫌というほど感じ取り、オルディス宰相は椅子に深く沈み込んでいた。


手は震え、額には嫌な汗が浮く。



「…あ、ありえない…」


かすれた声で漏らした。



「たかが辺境国の私生児が…大公妃…だと?」



机上には、先ほどセオドールの側近の男が置いていった婚姻通達書。

皇帝の署名と紋章が入っている。



もう…、完全に覆らない。


「まさか、あの王子が、…婚姻を切り札にしてくるとは…」



あの娘を取り戻しに来た大公を思い出すだけでも、背筋がぞっとする。


あれは敵に回してもいい相手ではなかった。

しかし、それに気付くのが遅すぎた。



「お父様!!」


勢いよく扉が開き、セレナが飛び込んでくる。


化粧は崩れ、髪も乱れ、その紫暗の瞳には常軌を逸した焦りが宿っていた。


「あの女…、…あの忌々しい女…ッ!なぜ、あの女が…大公妃に…!!」



宰相は目を閉じた。


「…落ち着け、セレナ」


「落ち着けるわけがないでしょう!?」



セレナはテーブルを乱暴に叩き、勢いで置いてあった紙が宙に舞う。


「どうしてです、お父様!わたくしは正妻になれるはずだったんです!」


「…セレナ、陛下が動かれた以上――、」


「黙って!!」


娘は父の言葉を切り裂くように叫んだ



「私はッ…、…わたくしはセオドール殿下の隣に立つために育てられてきたのです!闇魔獣も仕掛けたし証拠も用意した…ッ、あとはあの女を罪人にすれば終わりだったのに…!!」


宰相はぎくりと目を見開く。


「おい、声を落とせ。この屋敷は、もう帝国に監視されているかもしれんのだ」


セレナは震えながら父に縋りつく。


「…お父様、何とかしてッ…!あの女を引きずり下ろして!!わたくし、奪われたままなんて、絶対に嫌ッ…!!」


宰相は娘の肩を掴み、必死に現実を飲ませようとする。


「いいか、セレナ。殿下は、この件に関わる者たちを地獄に落とすと言ったんだ」


セレナが息を詰める。


「…冗談よね?」


宰相はゆっくり首を振った。


「目を見た。あれは本気だ」


宰相の喉がひきつり、声が掠れる。


「それどころか、セオドール殿下の背後には、皇帝陛下がいる。婚姻を許可したということは、大公国と帝国の双方が、あの娘を守る側についたということだ」


セレナの顔から血の気が引いた。


「じゃあ…っ、…私は…、何のために…あんなことまでしてッ……」


しばらく沈黙の後、セレナの瞳がじわりと狂気に染まっていく。


「…まだ終わってないわ」


「セレナ…?」


「大公妃の位は、あの女には相応しくない。セオドール殿下はわたくしのものよ…、私から奪うなんて…ッ…許さない、…許されない!!」


ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえた。


宰相は額を押さえ、深い絶望の息を吐く。


(……娘の狂気を、抑えられなくなっている)


そして自覚した。


追い詰められているのは、

ヒストリアではなく、宰相家(自分たち)の方だった。



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