43.奪還
夜更けの侯爵邸―――
門番の兵士が交代の挨拶を交わしていた時だった。
「開けろ」
短く、低い声が響く。
気づいた兵士は息をのみ――、
反射的に姿勢を正した。
「…ノ、ノルディア大公殿下…!いや、いくら大公殿下とはいえ―――、」
セオドールは、静かに一枚の封書を掲げた。
皇帝レオンハルトの“緋色の封蝋”。
帝国でこれを止められる者は存在しない。
「皇帝陛下の命により、ヒストリアの身柄を引き取る」
淡々としている。
だが、その深青の目の奥には揺れる焦燥がある。
兵士たちは慌てて門を開き、誰ひとり逆らおうとしない。
セオドールは一歩も迷わず敷地内へ進む。
その背中から、冷気がゆるやかに広がっていた。
侯爵邸の玄関ホールでは、使用人たちがざわめいていた。
しかし、セオドールは歩調を変えない。
(……どこに閉じ込めている)
胸の奥がひどくざわつく。
だが、それを誰にも悟らせまいと表情だけは徹底して整え続けていた。
カインが並んで歩きながら、小声で囁く。
「殿下、…一度深呼吸を」
「…あぁ、わかってる」
抑えた声。
だが手袋越しに握られた拳は、怒りで固く震えている。
重い扉が開き、オルディス侯爵が、わざとらしい微笑で玄関ホールに現れた。
「これはこれは、殿下。…お越しとは聞いておりませんでしたが?」
セオドールは無言で封書を卓上へ置く。
「皇命だ。ヒストリア・ヴァル=ノルディアを保護する」
(…ヴァル=ノルディア…だと?どういうことだ…)
侯爵の肩が、小さく跳ねた。
セオドールは一歩近づく。
声の調子は丁寧で穏やかなのに、底に鋭い痛みが潜んでいる。
「聞こえなかったのか?大公妃を引き渡せと言っているんだ」
侯爵は顔を引きつらせる。
「た、大公…妃!?…し、しかし…、暗殺未遂の―――」
「その件は、容疑者が皇族である以上、再捜査をすると、陛下が判断した」
セオドールの声が、少しだけ低くなる。
「それから、アストレイア帝国内で行われた尋問の正統性についても、皇帝直轄の監査隊がここへ向かっている途中だ」
「……!」
侯爵が声を失った隙に、セオドールは静かに言い放った。
「拘束している場所へ案内しろ」
「お、恐れながら殿下、―――ッ」
「案内できないのなら、こちらで探す」
淡々とした言葉。
しかし、
――絶対に許さない。
そんな怒気が、静かに満ちていた。
侯爵は蒼白になり、ついに折れる。
「…ご…ご案内いたします」
セオドールは俯いたまま歩く侯爵の背を見つめ、小さく息を吐いた。
もはや、その自分の吐息にすら苛立つ。
(…ヒストリア。今、行くから、どうか無事でいてくれ…)
誰にも聞こえない心の声。
外面はいつもどおり冷静。
しかし胸の奥では、ただ一人の名前だけが熱を帯びていた。
地下へ続く、石造りの螺旋階段を降りるほど、空気が重く、淀んでいく。
セオドールは無言で歩いていたが、途中でふと足を止めた。
「…臭うな」
カインも同時に気づく。
「…血、ですね。乾いた鉄の匂いです」
侯爵の肩が、ぴくりと跳ねた。
セオドールは気づかぬふりをして歩みを進めた。
だが歩くほど、胸の奥がざわざわと波立つ。
(…嫌な気配だ)
冷静を保ってきたはずなのに、心臓のリズムだけがじわりと乱れてくる。
牢へ続く石の回廊は驚くほど静かだ。
だが静けさが、逆に不気味だった。
セオドールは歩きながら、無意識に拳を握る。
皮手袋の中で、指先が震えた。
「殿下…?」
カインが小声で呼ぶと、
「…大丈夫だ」
そう答えながらも、視線は一点を見つめたままだ。
侯爵の歩幅がわずかに乱れ、その背中にどす黒い焦りが浮かぶ。
「こ、…こちらです、殿下…」
尋問部屋の入り口の扉の前で、侯爵が震えながら鍵を指差して言った。
「開けろ」
短く言われ、兵は侯爵を見ると頷いたため、震える手で鍵を差し込む。
ガチャリ、と鉄の音がやけに響く。
扉が、わずかに開いた。
その瞬間―――、
ひどく濃い血の匂いと、焼けた鉄のような痛い空気が溢れ出した。
セオドールは息を飲んだ。
(……これは、)
明らかに正常な尋問ではない。
これはただの暴力だ。
握った拳の関節が白くなる。
いつも抑えている魔力が、静かに、しかし確かに揺らいだ。
ゆっくり中へ踏み込んだ瞬間―――、
セオドールの視界に、鎖の吊り具、折れた椅子、血の滴る鞭、そして真っ赤な魔方陣、その中心に、うずくまる影が映った。
痩せた体。
血のにじむ唇。
姿勢すら維持できていない。
「ヒストリアッ!!!」
全身に広がる青痣と擦過傷。
背中の裂傷から、乾ききらない血がまだ落ちている。
その姿を見た瞬間―――、
セオドールの胸の奥で、
―――何かが音を立てて割れた。
「……」
セオドールの足元から、目に見えぬ冷気がじわりと広がっていた。
カインが気付き、咄嗟にセオドールの肩を抑える。
「殿下、だめです!部屋が凍れば姫が助かりません!今は姫の救出を最優先に!!」
侯爵は青ざめ、膝をついた。
「い…命ばかりは…お助けくださいッ!」
「黙れ」
セオドールは振り返りもしない。
ただ一言、抑えた声で。
だがその一言すら、侯爵の背中を氷の刃が走ったような錯覚を覚えた。
(…どうして、ヒストリアがこんな目に遭ったんだ)
こんな姿になるまで誰かが痛めつけたのが許せなかった。
怒鳴りつけたい相手がそこら中にいるのに、セオドールは必死に奥歯を噛みしめ、
「…ヒストリア」
もう一度、今度は静かに彼女の名前を呼ぶ。
その声は震えていて、荒れる感情を必死に押し殺していた。
ヒストリアに近づく足取りは、焦りを隠すように静かすぎて、逆に尋常ではなかった。
セオドールは、まるで落としたら壊れてしまうものに触れるように、ゆっくりと近づいた。
呼びかけても、返事はない。
ただ、かすかに胸が上下している。
生きている―――
それだけで、胸の奥にこびりついていた冷えた怒りがほんの一瞬だけ揺らいだ。
しかし、彼女の腕の痣、鎖で擦れた赤黒い跡、
唇の乾き、震えすら起こせないほどの衰弱が目に入ると、喉の奥に低い唸りが生まれる。
「……ッ」
言葉にならない。
拳が震え、呼吸が浅くなる。
怒りが爆発したわけではない。
ただ、胸の奥で音もなく何が裂ける感覚。
セオドールは一度だけ目を閉じ、深く息を吸った。
落ち着くためではない。
怒りを、外に溢れさせないためだった。
鉄の留め具に触れた指先が、微かに震える。
「……」
カチン、と金具が外れる音がした。
その小さな音でさえ、胸がきしむように痛んだ。
続けてもう一つ、
そしてもう一つ。
誰も何も言わず、動くことすらできずにその様子を見ていた。
セオドールの纏う気配が異様で、牢の中の空気そのものが見る者に重くのし掛かる。
拘束が完全に外れた瞬間、ヒストリアの体は、糸の切れた人形のように崩れた。
セオドールは咄嗟に抱きとめる。
「――っ」
何も言えなかった。
腕の中のヒストリアが、あまりに軽く、あまりに冷たく、呼吸が弱すぎる。
胸の奥では、自分でも制御できない感情が波打つ。
「なぜ、こんなことを…」
呟きかけて、言葉を飲み込む。
今言葉にすれば、怒りで全てが吹き飛ばしそうだからだ。
代わりに、彼女の肩にそっと手を添え、抱き寄せた。
「…ごめん…」
その声は驚くほど小さく、そして震えていた。
セオドールは、ヒストリアの軽すぎる体を抱き上げる。
そっと額に触れると、火傷のように熱かった。
(…間に合わなかったらどうするつもりだったんだ、俺は)
胸が締めつけられる。
だが、そばに彼女を抱いた瞬間―――、
怒りは、暴走ではなく“冷たい決意”へ形を変え始めた。
セオドールはゆっくりと立ち上がる。
後ろで、侯爵が、ひっ、と息を飲む気配がした。
だがセオドールは振り返らない。
ヒストリアを守る腕にぐっと力をこめ、静かに言い放つ。
「…ヒストリアの治療が先だ。―――その後で、お前たち父娘には聞きたいことが山ほどある。この件に関わった者は、俺が全員地獄に落とす」
低く落とされた声は、怒号よりもはるかに冷たく、恐ろしかった。




