38.冷たい地下で③
わずかな静けさの中で、ヒストリアは冷たい石壁にもたれ、深く息を吐く。
間もなく、鉄扉の向こうから、急に兵士たちの怒声が響いた。
「一人逃げただと!?」
「牢を確認しなかったのか!!」
(…早い。もう見つかったのね)
ヒストリアはゆっくり目を閉じた。
すぐに数名の兵士がなだれ込むように地下牢へ降りてきて、鉄格子が乱暴に開かれた。
「もう一人はどこだ!」
「知りません」
ヒストリアがきっぱりと言うと、兵士は躊躇なく腕を掴んだ。
「連れていけ。侯爵令嬢がご所望だ」
腕は強く捩じられ、ヒストリアは引きずられるように廊下へ連れ出された。
地下のさらに奥―――、
湿り気と鉄の匂いが濃くなる。
部屋の扉がギィと軋んで開くと、石壁には鎖が垂れ、床には古い赤黒い染みがこびりついていた。
(…ここで、エマも)
胸がぎゅっと痛む。
ヒストリアが抵抗する前に、兵士たちが腕を持ち上げ、両手首を天井の鎖へ繋いだ。
足元が浮き、身体が引かれる痛みで息が漏れる。
「牢番を気絶させて侍女を逃がすとはな。さすが皇后の暗殺を企てる女は恐ろしいな」
「私は暗殺なんて―――、」
否定の声は、扉の向こうから響いた靴音にかき消された。
コツ、コツ、コツ。
靴音。
軽いのに、背筋を冷やすほど鋭い歩み。
紫暗の瞳が闇を割って現れ、セレナが拷問部屋の中央に立った。
眉ひとつ動かさず、ヒストリアを見上げる。
「…逃げたのね。あなたの侍女」
「エマは関係な―――」
ぱん、と乾いた音が部屋を叩いた。
セレナの平手が、ヒストリアの頬を打っていた。
鎖に固定されているせいで、ヒストリアの身体は大きく揺れ、頬がじんと熱を持つ。
唇の端からは血が滲んでいた。
セレナは怒っている。
もはや、狂気じみた冷たい怒り。
「わたくしの邪魔ばかりする。大人しく罪を認めていれば、まだ優しくしてあげられたのに」
「…優しく…?」
ヒストリアはセレナを睨んだ。
「友人を傷つけて、罪なき人間を陥れて…、それが優しさ?」
セレナの唇が歪み、じり、とヒストリアに近づく。
そして、顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「あなたが大人しく死ねば、全部終わるのよ」
「……」
「でも、逃げた侍女のせいで面倒になったわ。
あの子、どこまで逃げたのかしら?」
心臓がぎくりと跳ねる。
セレナはそれを楽しむように、ヒストリアの頬を撫でた。
「安心して。見つけたら、あなたの隣に連れて来るわ。じわじわと少しずつ痛め付けて殺してあげる」
声は甘く、美しい。
だけれど内容は、どす黒い悪意そのものだった。
ヒストリアが唇を噛んでセレナを睨む。
セレナは踵を返し、部屋を出ようとしたところで、その背中に、ヒストリアは息を絞り出すように声をかけた。
「私がここで死んでも、あなたのことを許す日は絶対に来ない」
セレナはゆっくり振り返り、笑った。
「あなたの許しなんていらないわ。わたくしは欲しいものだけ手に入ればいいの」
扉が閉まり、暗闇が濃くなる。
残されたのは、鎖と冷たい空気だけ。
ヒストリアは痛みを堪えながら、目を細めた。
(…エマ、どうか無事で逃げて)
光のない地下室で、
彼女はただ祈り続けた。
*******
一方、逃げ出したエマは、屋敷の影に身を潜めながら、震える手をまるで何かを包み込むように合わせた。
(…どうか、届いて…!)
小さな光がぱちん、と弾け、エマの手の中から白い羽根を模した小さな鳥が生まれる。
魔力をほとんど持たないエマが、唯一使える伝令魔法だった。
それは長くは持たない弱い魔法。
それでも、ヒストリアを助けるための唯一の手段だった。
鳥は空へ舞い上がり、侯爵邸から飛び立った。
その様子を見届けると、エマは静かに鳥の向かった方向へ自身も動き出す。
ほどなくして、侯爵家の外で警備をしていた兵士が、光る鳥を見つける。
「…あれ、なんだ?」
「伝令の鳥か?…侍女が逃げたらしいからな。大公国に向けて放ったんだろうが、あれじゃ大公国どころか国境までもたない。放っておけ」
誰も気にも留めず、鳥はただ暗い空へと溶けていった。
―――誰にも、届かないと思われた鳥。
だが、その小さな光はふわりと軌道を変え、帝都中心の皇宮に吸い込まれるように入ると、ミレイユ皇后の手の中に落ちる。
「……っ!」
鳥の形をしていた光が、少しずつ溶け始め光の粒となった。
同時に、震えるエマの声がかすかに流れる。
《ヒストリア様が危険です……オルディス侯爵邸の地下にいます……どうか、お助けください》
光はそこで途切れ、散るように消滅した。
弱く短い魔法だったが、ミレイユには十分だった。
「レオンはどこ?」
その言葉と共に慌ただしく立ち上がる。




