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36.冷たい地下で①



厚い石壁と無駄に頑丈な鉄の扉と鉄格子―――


ヒストリアとエマは、アストレイア帝国にある、オルディス侯爵邸の地下牢に連れてこられていた。



ヒストリアは手を縛られたまま、冷たい床へ押し込まれる。


エマも一度は同室に投げ込まれたが、すぐに粗暴な騎士たちに引きずられていった。



「…嫌っ…、離してッ、…ヒストリア様…!」


「やめて! エマは関係ありませ―――」



言い終える前に鉄格子の扉が叩きつけるように閉じられる。


ヒストリアは鉄格子に駆け寄り、エマが連れていかれた方向に耳を澄ませた。



何も聞こえない。

だからこそ――、想像してしまう。



拷問めいた尋問が行われるのではないか。


エマの細い腕。泣き声。

震えた身体。

自分のせいで、エマが…、


胸がぎゅっと掴まれた。



(落ち着け。…考えるのは後。まずは、エマを守らなきゃ)


そう自分に言い聞かせても、時間は容赦なく過ぎていった。




どれほど経ったのか分からない。

牢の中の石壁には、何のためかはわからないが、大きな魔方陣が描かれており、ぼんやりと光っていた。

地下牢の入り口の重い扉が軋み、奥の通路がざわつく。


足音。

乱れた呼吸。

布の擦れる音。


次の瞬間、薄暗い通路の先から、エマが半ば抱えられるように戻ってきた。


「エマ!」


ヒストリアが駆け寄ると、看守が無造作にエマを突き出すようにして中へ入れた。


その腕の中で、小柄な侍女は震えていた。



顔色は雪のように白く、唇は紫がかっている。

衣服は乱れ、ところどころ濡れている。


涙の跡が乾かず残り、腕には無数の赤い跡がついていた。



騎士団時代に、敵の捕虜となった仲間の状態に似ている。


あからさまな暴力の痕ではなく、耐えきれないほどの恐怖を与え、精神を削られた可能性がある。



「エマ、大丈夫? 私の声、聞こえる?」


ヒストリアは抱きしめるように、そっと身体を支えた。



エマは泣きじゃくるでも、叫ぶでもなく、ただ震えながら、掠れる声で言った。


「…ヒス…ト…リア様、…ごめ……なさい…」


「どうして謝るの。あなたは何も悪くないでしょう?」


エマの手がヒストリアの袖を掴む。

弱々しく、それでも必死に。


「あ…あの人…たちが、…危険だって…ヒストリア様は…密偵…だと……、そ…なこと…な……」


「もういい、喋らなくていいから。ね?」



エマの瞳孔は揺れ、焦点が合っていない。


尋問の内容は聞かずとも分かった。


ヒストリアを悪者として仕立てるための理由探しだ。

エマを恐怖で支配し、嘘を言わせようとした。



怒りが喉の奥でゆっくり膨らむ。

冷たく、鋭く、静かに。



(…絶対に、許さない)


その怒りは誰に向けられたものか、この時のヒストリアはまだ明確には言葉にしなかったが、その思いは確かに胸に沈殿していった。


自分ではなく、エマが傷つけられたという事実だけで、ヒストリアの中に許しがたい決定的な線が引かれた。





*******

あれから何日くらい経っているのだろう。


窓が全くない地下牢では、今が朝なのか夜なのかもよくわからない。


硬いパンと水が一日二回運ばれてくるが、それ以外は誰も訪れることのない冷たい空間。



エマは震える身体をヒストリアの膝に預け、浅い眠りについていた。



ヒストリアは自分が羽織っていた上着をエマにかけ、背中をそっとさする。



(エマを…、こんな目にあわせるなんて)


自分が傷つくよりも、ずっと痛かった。

胸の奥が焼けるように苦しい。



その時―――、

奥の通路で、重い扉がひとつ、鈍く鳴った。



ヒストリアはすぐにエマの身体を抱え込むようにして守る姿勢になる。


足音が近づく。

騎士よりも軽く、乱れがない。


そして牢の手前で止まる。




静寂。


まるで、空気が凍りつくように。


ヒストリアはごくりと喉を鳴らした。



扉の前で金具が打ち鳴らされ、ひゅ、と地下の風が一度だけ揺れた。


そして、ゆっくりと現れたのは、闇の中でも艶やかな紫暗の瞳―――


セレナだった。



「こんばんは、贈り物の花嫁さん」


声も、微笑みも甘いのに、その奥の色は毒そのもの。



ヒストリアは思わず、エマを自分の背後に隠す。


「…何のご用でしょうか」


セレナはあざ笑うように唇をゆるめた。


「用?そんなの決まっているでしょう?邪魔な小娘の顔を見に来ただけよ」


その態度で、確信に変わった。


──やっぱり、闇魔獣を放ったのはこの女だ。


ヒストリアが静かに睨み返すと、セレナは愉快そうに指先で鉄格子をなぞった。


「あなたって本当に()()()()のね。皇后陛下を守って、怪我をして、殿下に心配されて…」


鉄の向こうから、嘲りを込めて囁く。



「…あぁ、そうだわ。毒が抜けるまで殿下が寝台の側を離れなかったって噂、聞いたわよ?あのセオドールが、毎日添い寝するなんて…」



(…殿下はそんなことしてない)


だが否定しようとしても、怒りでうまく声が出ない。


セレナはその反応すら楽しんでいるようだった。


「でも結局、あなたはここに落とされた。それが、あなたの正しい居場所よ」


ヒストリアは静かに息を吸い、言い返す。


「だったら…、あなたは何のためにここに来たんですか?」


一瞬、セレナの笑みが止まる。


ヒストリアは続けた。


「堂々と勝負もせず、姑息な手段で人を陥れ、関係ない者まで巻き込んで手に入れた勝利だから実感がないのですか?私が邪魔だというなら、会いに来なければいいでしょう」



地下牢の冷たい空気が震えた。


セレナの目が細くなり、声が氷のように落ちる。


「口の悪い贈り物ね。その癖、殿下の隣に立とうとするなんて勘違いも甚だしいわ」


「私は、立とうとしていません」


「でしょうね。あなたにそんな価値はないもの。なにしろ、私生児なんだから」


セレナは小さく笑う。


「だから安心して。もうすぐ、あなたは罪人として処理される。殿下も、皇帝も皇后も…誰もあなたを庇えない形でね」


ヒストリアは目を伏せたが、その指先は震えていた。


恐怖ではない。


エマを傷つけ、自分を罠にかけ、さらにはセオドールまで利用して嘲笑う。


この女には怒りしか沸かない。


ヒストリアは怒りを飲み込み、ほんの少しだけ背後のエマを振り返った。



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