3.馬車の中の微笑
「初めまして、花嫁様」
黒銀の鎧に漆黒の外套を羽織った青年―――大公セオドール・ヴァル=ノルディアの側近、カイン・ヒックスだ。
琥珀色の瞳が、ゆっくりと馬車の中を見据えていた。
「少し寒いですが、馬車を一度お降り願えますか?」
そう言って、カインが一歩馬車の中に入り手を差し出してくる。
「…馬車を降りろとはどういうことです!」
王妃の侍女であるカーラがすかさず声を荒げる。
「…そのままの意味だが?リヴィアナ姫以外は、ここで引き返していただく」
低く響く声に、カーラだけでなく外にいる従者たちのざわめきも聞こえてきた。
「な、なにを言うのです!私たちも同行を―――」
「大公殿下の命ですので」
その一言に、全員が口を閉ざして反論できない。
雪が降りしきる中、ヒストリアはひとり馬車の外へと歩み出る。
背後からカーラが焦ったような声をあげたが、彼女は振り返らなかった。
―――あなたは自由に生きなさい。誰の命令も恐れる必要はないわ
母の言葉が、胸の奥で繰り返される。
外には、雪原とは対照的な黒い軍馬を連ねた一団がいた。
ノルディア大公国の紋章、白狼を刻んだ旗が風に翻る。
雪を踏む音が、やけに重く響いた。
「…一応確認しますけど、あなたがリヴィアナ姫ですよね?」
カインの無表情な冷たい視線が、一瞬で全身を射抜く。
彼の琥珀色の目は、人を値踏みするように鋭く、しかしどこかで静かに確信しているようだった。
背筋が凍りそうなヒストリアは、ただ小さく頷く。
白い狼が彫られた立派な馬車に乗り込む瞬間、カインが低く囁いた。
「…リヴィアナ姫、道中は長い。お気をつけて」
彼の眼差しは、全てを見透かしているように思えた。
扉が閉まり、馬車が軋みながら動き出す。
国境にあった大きな木がだんだん遠ざかり、ヒストリアは完全にひとりになった。
しばらくして、カインが毛布と毛皮を持って馬車に入ってきた。
馬車の揺れが静かなリズムを刻んでいる。
ヒストリアは膝に手を重ね、横にある窓の小さな硝子に映る自分の顔を見つめていた。
窓から目が離せない理由は、この男―――カインが目の前に座っているからだ。
彼は外套の襟を立てヒストリアの前に座ると、なぜかこちらを見て静かに微笑んでいる。
「お身体は冷えていませんか?北方の地は初めてでしょうから」
カインの声は低く滑らかで、どこか柔らかさもあった。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。十分温かいです」
ヒストリアは小さく笑った。
フェルバールでは、騎士の仲間はいても、こんなに自分のことを丁寧に扱ってくれる人間はほとんどいなかった。
その優しさが、素直にうれしい。
「もう少しすると領地に入ります。そこからは魔法の領域なので、この寒さもあと少しですよ」
「魔法で領地を温めているということですか?」
「…まぁ、そんなところです」
ヒストリアは魔法師に会ったことがない。
だから、魔法がどのようなものかは想像できなかった。
「セオドール大公殿下は魔法師であると聞きました。大公国の方はみなさん魔法が使えるのでしょうか」
「全員というわけではないですよ。殿下の魔力の強さは桁外れですが…」
「…どんな…お方なのですか?」
これは、ヒストリアの率直な質問だった。
「さぁ…。私にもよくわかりませんが。ひとつだけ―――」
言葉の刃が柔らかく転がる。
「……?」
「殿下は偽りを嫌われるお方です。たとえ小さな”嘘”でも、それが国を滅ぼすこともあるということを知っておられる」
ヒストリアの心臓が一瞬跳ねた。
まるで見透かされているような、そんな口調だった。
だが、カインは続けて、空気を和らげるように微笑んだ。
「…とはいえ、姫のような方をお迎えできるのはこの上なく光栄です。噂に違わぬプラチナブロンドの美しい髪ですね」
―――髪…?
髪の色を知っているのだろうか。
確かに、リヴィアナの髪とヒストリアの髪の色はプラチナブロンドで、これは父であるフェルバールの王から受け継いでいるものだ。
外見を知られているという何でもないようなことが、小さな寒気となって背筋に走る。
「やはり、少しお寒いですか?よろしければこれを」
カインがカップに赤みがかったお茶を注いでヒストリアに差し出す。
「お飲みください。体を温めます。…ご安心を。毒など入っておりませんよ」
冗談めかした笑い。
しかし、ヒストリアは思わず手を止めた。
カインの目が笑っていなかったからだ。
琥珀色の瞳―――、その奥には怪しい光が潜んでいる。
「……」
「…冗談です、姫。本当に体が温まりますのでどうぞ」
ヒストリアは黙ってお茶を飲み込んだ。
確かにお腹のあたりは温かくなったものの、指先と背筋だけは冷たいままだった。
―――この男は、おそらく気づいている。
自分が”本物”ではないことを。
ヒストリアがお茶を飲みほした後、再び窓の外に目を向けると、カインは静かにその横顔を見つめた。
穏やかな微笑みの裏で、心の中は冷酷だ。
(花嫁様が嘘を吐く唇で微笑むなら、その喉を切り裂くのは俺の役目だ)
それでも声は優しく。
「どうかご安心を。まだ少し時間がかかります。眠ってしまっても結構ですよ」
この監視のような視線に耐えながら眠るのはおそらく無理だろう。
ヒストリアは黙って空になったカップを返した。




