32.噂の花嫁
ヒストリアが治癒塔を出て、ふたたび城の東翼に移った頃、帝都の空気はざわつき始めていた。
大公城のに魔獣が侵入した―――
そして皇后ミレイユを庇って“贈り物の花嫁”が重傷を負った――と。
その噂は、本来なら軍内部だけで処理されるはずが、どこからともなく漏れ出し、一気に広まっていく。
「属国の娘が皇后陛下を守ったらしいぞ」
「いや、そんなわけが…」
「だが大公殿下が大層取り乱したらしいじゃないか」
「あの氷のような殿下が?」
「…あの娘、本当にただの人質なのか?」
市場、官邸、教会。
どこへ行っても、耳を澄ませばその話題ばかりだった。
その熱は、すぐに“知りたがりの貴族”たちに届き―――、
帝国の宰相の一人娘であるセレナ・オルディスの耳にも、噂は当然のように舞い込んだ。
セレナはあの舞踏会以来、大公城下にある屋敷に滞在していた。
侍女から報告を受け取ったセレナは、上品な笑みを浮かべながら、手元のティーカップを傾けた。
「……“成功した”ということね」
侍女がひざまずき、声をひそめる。
「はい。あの魔獣は、お嬢様が用意されたアレに間違いありません。呪術の痕跡は消えるように依頼しましたし、城門の開閉記録も、細工した通りに―――、」
「いいわ。そこまでで十分」
セレナは軽く扇子をかざして制した。
「気づかれないように、庭園辺りの人払いをしておいたのも、想像通り効果があったみたいね」
表向きは華奢で物静かに見える令嬢。
だがその横顔は、闇よりも静かな冷徹さを帯びていた。
「皇后陛下は守られ、“贈り物の娘”は負傷。そして――、大公殿下は大いに動揺した」
表情は笑っているのに、紫暗の瞳は怒りに揺れているようだ。
「これ以上に、世間が騒ぐ材料はないわ」
パチンッ―――
音を立てて扇子を閉じる。
「…でもね、私は彼が誰かに心を乱されたと知られることが、気に入らないの」
侍女は息を飲む。
セレナは柔らかい声で続けた。
「これで分かったわ。あの子は私の敵。可哀想に、理解してないみたいだけれど」
窓の外、遠くに見える大公城を眺める瞳が、鋭く細くなる。
「セオドールは、私の隣に立つべき人よ。だから邪魔な花嫁には…消えてもらわないと」
*******
同じ頃、大公城の執務室。
積み上がった書類の山を前に、セオドールは机の端に片肘を置いたまま動かなかった。
机の上には、事件当日の記録、魔獣の残骸の報告、巡回の配置図が広げられている。
対面に立つカインは、主の沈黙に慣れているはずなのに、今日は妙に息をつめていた。
「…殿下。これで、魔獣は城の外から偶然侵入した線はほぼ消えました」
セオドールが片目を伏せる。
「結界は破られていなかったな」
「はい。結界は破壊の痕跡も、揺らぎもなし。となると…、内部から、あるいは、誰かがわざと通したと考えるべきでしょう」
カインの言葉に、執務室の温度が一段階落ちた。
セオドールは長い指で書類を弾く。
その仕草ですら張り詰めてた。
「…あの場にいたのは、皇后、ヒストリア、護衛はノエルを含めて三名。魔獣が放たれた位置は皇后の近く。標的はミレイユか、あるいは―――」
言葉を切り、セオドールの瞳に、刃のような光が宿る。
カインが慎重に続きを読んだ。
「…ヒストリア姫、ですね」
セオドールの指が机を叩いた。乾いた音だった。
「誰だ」
「殿下?」
「誰が、あそこに魔獣を誘導した」
声は低いのに、圧が強すぎて空気が震える。
カインは冷静に書類をめくりながら言葉を並べる。
「可能性の高い線は三つです。
一つ。結界に触れず魔獣を操れる者が内部にいた。
二つ。外部の魔獣の巣と庭園を移動魔方陣で繋ぎ、侵入させた。
三つ。警備の記録が何者かによって書き換えられた」
そこまで言ったところで、カインはちらりとセオドールを見る。
セオドールが眉をわずかに寄せた。
「三つ目の線が現実的だろう。ヒストリアを狙うほどの恨み…。そんなものを持つのは誰だ」
「彼女がこの城に来て、まだひと月足らず。恨みというより…“邪魔”と思う者なら、心当たりはあります」
「……」
「殿下の元婚約者、セレナ侯爵令嬢です」
執務室の空気が止まった。
セオドールの気配が、ゆっくりと荒ぶる。
「理由は」
「ヒストリア嬢の存在が、これまでの権力図を壊します。そして、セレナ様が望んでいた“立場”を奪うことになる」
カインは淡々と、しかし少しだけ言いにくそうに続ける。
「侯爵令嬢は、殿下が誰を見ているか、お気づきなのでしょう」
セオドールのまなざしが鋭く跳ねる。
「俺は誰も見てない」
「…殿下。言葉と態度が一致していません」
「……」
言い返せず、わずかに顔をそむける。
カインは心の中でため息をつきながら、本題に戻った。
「セレナ様本人が直接手を下したとは限りません。使用人か、買収された者か…、あるいは、彼女に恩を売りたい誰かか」
セオドールの指先に、淡い冷気が集まっていく。
「…犯人を見つける。ヒストリアを狙った者は―――、」
冷気がふっと弾けた。
「俺が必ず始末する」
その声音は冷酷だったが、そこに混じる感情は、怒りよりもっと深くて危ういものだった。
カインは小さく頷く。
「すでに動いています。侍女・護衛・魔法士・出入り商人、全員洗わせました。何かしらの痕跡さえあれば、数日で報告できます」
「遅い」
「殿下…、そもそも魔獣の残骸を怒りに任せて痕跡が追えないほどに粉々に破壊したのは誰ですか?」
セオドールは机の縁を強く掴んだ。
机の上にある紅茶が音を立てて凍る。
「それさえ残っていれば、もう少し簡単に犯人に辿り着いたかもしれないものを」
その一言に、カインはやれやれといった感じで苦笑を浮かべた。
「…殿下は、本当に気づいていないんですね」
「何がだ」
「ご自分が我を失う程に姫をご心配なさっていることをです」
セオドールは沈黙した。
否定も肯定もしない。
ただ、言葉が出ないように瞳を伏せた。




