31.すれ違う気持ち
魔獣襲撃事件から数日後、ヒストリアはまだ治癒塔にいた。
毒が抜け切らず体がまだ少し重いが、日常生活くらいは元通りに送れるようになっている。
この数日間、セオドールが当たり前のように側に座っていることに気づいた瞬間、複雑な思いが頭を過る。
自分は人質としてここにいる。
人質は、何かあれば外交問題に発展しかねない。
人質として送った花嫁が、大公城に侵入した魔獣に殺されたとなれば、大公国の警備も疑われるし、威信に関わるだろう。
セオドールが、呼吸が止まっていないか確認したり、必死に自分を治療したりするのは、きっとそのためだ。
そうでなければ、あの氷の暴君と呼ばれているこの男が、自分に優しくするわけがない。
(…余計な感情を持ってはいけない。私はいつかフェルバールの母を迎えに行って、二人静かに暮らすんだから)
ヒストリアが小さくため息をついた。
すると、すぐ側でセオドールの声がした。
「顔色が悪い。横になれ」
「大丈夫です」
「嘘だな。今、眉が少し歪んだ」
見透かされたような気分になり、ヒストリアはむっとする。
「…殿下は、なぜそんなに私を見ているのですか」
「倒れられては困るからだ」
「倒れません」
「お前の言うことも判断も信用できない」
責めるような声音。
けれど、目だけが優しく見えてしまうのは、きっと自分が心に秘めている気持ちのせいなのだろう。
(勘違いしちゃ、だめ)
ヒストリアは唇を噛んだ。
「殿下は…責任があるから、私を心配しているんですよね?人質を死なせれば国同士の問題になりますから」
セオドールの表情が一瞬だけ止まった。
冷たい青色の瞳が、深く沈むように細まる。
「…それが、お前の考えか」
「違いますか?」
「……」
やや強く目を伏せ、沈黙している。
ヒストリアには、それが“肯定”に見えた。
胸が重く、少しだけ苦しい。
「私はノエルを下がらせて、結果、確かに怪我はしました。でも、それはミレイユ様を守るため。あの場ではあれが最善で―――、」
「無謀だな」
セオドールの声が低く落ちる。
「お前の判断が正しかったかどうかは関係ない。身を危険に晒したことが問題だ」
「危険に晒されていたのは皇后陛下です」
「……」
セオドールがわずかに言葉を詰まらせる。
ヒストリアは続けた。
「私は、私にできることをしただけです。ここに連れてこられたからといって、弱いだけの存在ではいたくないし、これからも同じ判断をすると思います」
強く、はっきりした声。
セオドールがヒストリアを見る目が変わる。
怒りでも苛立ちでもなく――、
ただ、何かを飲み込むような、静かで深い色に。
「…それだ」
「え?」
「俺が、お前を見張る理由」
ヒストリアは一瞬理解できず、固まる。
セオドールは視線を外し、ぶっきらぼうに言い直した。
「お前を押さえつけるつもりはないが、また今度あんなことをしようものなら、縛り付けてでも動きを封じてやる」
「殿下。私は人質だからと殿下に守られるのは嫌です」
「…わかってる」
「なら、少しは信じてください」
「……」
沈黙。
それは怒りでも拒絶でもなく、
“どう返すべきかわからない”沈黙だった。
セオドールはゆっくりと顔を上げ、目だけで彼女をとらえる。
「…もう少し回復したらな。今はまだ無理だ」
ヒストリアは視線を落としたまま、ぽつりと呟く。
「…信じられない者を側に置かなくてはならないのは、大公国にとっても良いこととは思えません」
「そういう問題じゃない」
「殿下は以前、フェルバールは不問にすると仰いました。もし、寛大なお心でそうしていただけるのでしたら、体力が戻り次第フェルバールに帰国させてください」
セオドールの呼吸が微かに乱れた。
「…帰国だと?」
その声はいつになく低く、澱んでいる。
「どっちにしろ、あの国には戻れないと思うので、私は母を連れてどこか別の国で静かに暮らします」
「誰が帰っていいと言った」
「……」
「お前は帰さない」
淡々とした声音。 けれどその奥に、聞いたことのない色が混ざる。
何かを押し殺すような、そんな響き。
(…帰りたいと言ったから怒ってるの?)
急いで頭を下げた。
「…すみません」
「何の謝罪だ」
「…殿下がお怒りのようなので」
「怒らせているのはお前だろ」
言葉が鋭くなり、ヒストリアの肩がびくりと揺れた。
(…やっぱり、怒らせた…)
視線を落とし、黙ってしまう。
セオドールはそんな彼女の反応を見て、
今度は自分が凍りつく。
(…なぜ、俺を見るとそんな顔をする)
避けるように目を伏せるヒストリア。
怯えているように見えてしまう。
何か言おうとして、結局言葉にならず、セオドールは椅子を引いて立ち上がった。
「…この城の中では好きにしろ。でも、外には出さない」
その一言だけ落として、外へ出ていく。
ドアが閉じる音がしたあと、
部屋はまた静寂に包まれる。
すれ違いだけが、そっと部屋に残された。




