29.弱音
治癒塔の最上階は、魔力を吸い上げるような静けさに包まれていた。
ヒストリアは氷のように白い寝台に横たわり、毒を中和する魔法陣の光が、脈のように揺れている。
セオドールは、彼女から一歩も離れなかった。
医師たちが「大公殿下、外でお待ちください」と促しても、一切聞く耳を持たない。
外套を脱ぎ捨て、血のついた手を拭いもせず、
ただヒストリアの頭の横に片膝をつき、呼吸を確かめ続ける。
「…おい、目を開けろ」
かすれた声が彼女の頬に落ちる。
「…傷は治す。毒も今中和してる。血が足りないなら俺のをやるから」
いつも落ち着いた深青の瞳が、珍しく揺れていた。
ヒストリアの指先が、ほんのわずかに動く。
セオドールはその動きを逃さず、彼女の小さな手を包むように握り込む。
窓の外では、深夜0時、本来ならば舞踏会が終わる時間の鐘が鳴り響いていた。
「…お前は勝負に負けて、この時間までは何でも俺の言うとおりにする約束だろ?だったら早く目を開けろ」
執務室でのくだらないやり取りや、白狼の世話をした、何でもないようなことが思い出される。
「…戻ってこい。咎めも怒りもしない。だから…、頼むから目を開けてくれ」
普段なら絶対に見せない弱さが、そこにあった。
*******
意識の底。
遠くで、雪が降っていた。
冷たいのに、不思議と寒くない。
(…私…どこにいるんだっけ…?)
手を伸ばすと、雪が柔らかく溶けた。
代わりに、温かなものが手に触れる。
『ヒストリア』
ふいに呼ばれた名に、胸が締めつけられる。
声の方向を見ると、
暗い雪原の向こうに、彼がいた。
(…殿下?)
けれど思ったよりも距離が遠い。
セオドールの声は聞こえるのに、どんどんその姿に霞がかかっている。
その声が、ひどく優しかった。
(行かなきゃ…)
足を踏み出そうとした瞬間、
背後から何か黒い影が絡みつき、腕をひいた。
(……!)
影が蛇のように巻き付いて体を蝕む。
呼吸ができない。
セオドールの姿が遠ざかり、声がかすんだ。
『…行くな、戻ってこい』
その声だけが、雪原に残る灯のように響いていた。
ヒストリアはその声に向かって必死に手を伸ばした。
(―――行かなきゃ。あの声のところへ)
その瞬間、闇がはじけ、光が胸に流れ込んだ。
*******
瞼の裏に残っているのは、雪と、遠くで呼ぶ声。
(…声…、…殿下…どこ…?)
ゆっくりと瞼が重力に逆らうように開く。
視界にまず飛び込んできたのは―――、
寝台に身を乗り出し、彼女の手を強く握りしめているセオドールの姿だった。
透き通るような青い瞳が、ひどく険しく細められている。
「…ようやく目を開けたか」
低い声―――
…怒っているのだろうか。
ヒストリアは反射的に小さく身を強張らせた。
「…あ、の…、」
「なぜ勝手に無茶をした」
第一声、それだった。
ヒストリアは意味が分からず瞬きをする。
「…無茶はしてません。私は…、」
「しただろ、十分に」
セオドールは顔を背ける。
だが手だけは離さないどころか、指先に力がこもっていた。
「魔獣の爪が掠めただけでこうなっている」
「…ミレイユ様が危かったんです」
「助けたことを咎めてるわけじゃない」
セオドールの声は怒っているはずなのに、抱え込むような、痛むような音だった。
ヒストリアは気付く。
彼の大きな手が、自分の手を握っているというより、縋るように掴んでいるのを。
「……?」
すると―――、
セオドールが、ゆっくりとヒストリアの額に触れた。
指先で、そっと汗を拭う。
「…死ぬかと思ったんだ」
小さく漏れた声は、怒りではなく―――焦燥。
ヒストリアの呼吸が止まる。
「殿下…?」
「二度と勝手に傷を負うな」
「……」
「…お前のあの姿を見たときには、耐えられなった」
胸が締め付けられた。
その言葉はあまりにも正面からで、けれど照れも迷いもない。
ヒストリアは大慌てで顔を背ける。
セオドールはヒストリアの頬に触れ、反対の手で彼女の指先を包んだ。
「…他に痛むところは」
「だ、だいじょうぶ…です…」
「そうか」
セオドールが小さく息を吐く。
「…ノエルは、無事でしょうか」
「…あの護衛は俺が殺した」
「え!?なんでそのようなことをッ…」
「お前を守れという命に背いたからだ」
「そんな…っ、」
ノエルはヒストリアの言葉に従っただけだ。
「ノエルは悪くありません!なのに…」
まさか、殺してしまうなんて。
ヒストリアが慌てて起き上がる。
「おい、まだ起きるな」
「だって、殿下がノエルを―――、」
「…姫さん?」
部屋の入り口から、ノエルがひょこっと顔だけ覗かせる。
「…ぇ、……なんで?」
「…目が覚めてよかった。…なんか、俺の名前が聞こえたけど、何か用っすか?」
「…ノエル、無事だった…?」
気が抜けたような変な声が出てしまった。
「…大丈夫じゃないですよ!姫さんが皇后様を守れっていうから、仕方なくそっちに回ったってのに。おかげで死ぬ目に遇ってます」
「…死ぬ目?」
「近衛兵の雑用、全部俺一人でやってるんですよ!?その上、訓練のメニューも俺だけみんなの三倍だし」
「…そ…、そうなんだ」
「…俺、洗濯あるんで行きますね。姫さん、お大事に」
そう言うと、ノエルは塔の内階段を降りていった。
「……」
「……」
「…殿下」
「…なんだ」
「…ついていい嘘とダメな嘘があります」
淡々と言うと、セオドールはわずかに眉をひそめた。
「嘘ではない。殺しかけたのは本当だ」
「やめてください」
「…事実だ」
「いらない事実です」
ヒストリアは思わず布団を握りしめる。
「ノエルは悪くありません。私が“皇后陛下を守って”と、頼んだから。…なのにひどいです」
セオドールはそっぽを向く。
「…誰の命令に従わなければならないのか、教えるいい機会だ」
「それにしても…―――、」
雑用やら訓練の量やら、ノエルが不憫だった。
お前は―――、
と、静かに言葉を遮ったのはセオドール。
「…あの状態で倒れていたお前を見た、俺の気持ちを考えたことはあるのか?」
「…は?」
「…血が止まらず、顔色も悪い、息も浅くて、どうすればいいのか分からなかった」
その声は、怒りでも威圧でもない。
ただ、恐怖が混じった弱い音だった。
ヒストリアの胸がきゅっと掴まれる。
「…でも、殿下。私はこうして無事に…」
「無事じゃない。兄上が連れていた治癒魔法士がいなければ死んでいた」
「……」
セオドールはヒストリアの手を取る。
指先が少し震えている気がした。
「…あんなものを、二度と見るのはごめんだ」
「……」
「お前が傷つくのは…嫌だ」
真正面から、それだけを告げられると
何も返せなくなる。
ヒストリアが少し俯くと、セオドールはその反応をどう解釈したのか、焦ったように近づいてきた。
「…痛むのか?」
「ち、ちがいます!」
「…熱か?」
「それも違います!」
「…では、どこが悪い」
「殿下が近いんです!!」
きっぱり言うと、セオドールは一瞬ぽかんとした。
「…近い…?」
「…はい」
二人の間は息がかかりそうな程近づいていて―――、
バンッ!
…その瞬間、扉が開いた。
「リア…!!」
「おいセオドール、目が覚めたって……うわ、なんだこの空気」
レオンハルトとミレイユが勢いよく乱入した。




