26.深紅の令嬢
セオドールとヒストリアが会場へ戻る頃には、大広間に楽団の音が鳴り響き、人々がダンスを楽しんでいた。
人混みを抜けて近づいてきたのは、セオドールの側近、カイン・ヒックス。
「お見事でした、殿下。そして姫も、まさかここまで踊れるとは思いませんでしたよ」
ヒストリアは少し頬を赤らめ、視線を落とす。
「…そうですか?練習のときは、足を踏んでばかりで…」
「本番に強いタイプなんですね」
カインが柔らかく笑う。
その横でセオドールは腕を組み、なぜか誇らしげな表情を隠しもせず立っていた。
「…当然だ。俺が教えたんだからな」
「…はいはい、殿下の指導の賜物ということで」
カインは軽く肩をすくめる。
ヒストリアはそのさりげない空気感に少し笑った。
緊張がほどけていくのが分かる。
そんなやり取りが自然と続き、三人の間に穏やかな空気が流れていた。
そんな中、セオドールがカインにしか聞こえないほどの小声で話しかける。
「…ヒストリアの護衛は」
「いつも通り、ノエルを遠くからつけています」
―――ノエル。
塔でヒストリアと剣の訓練をしていた若い兵士だ。
「こういう日は、俺やお前の目が届かないこともあるからな。気を引き締めるように伝えろ」
「わかりました。それから、殿下のご指示にはありませんでしたが、秘策を仕込んであります。もし姫に危険が及べば、それが何とかしてくれるでしょう」
セオドールが、何のことかわからないといった顔をした。
しかし、カインは策略家だ。馬鹿ではない。
きっと最善の方法をとっているのだろう。
不意に大広間の空気が変わったのは、それからすぐのことだった。
会場のざわめきの向こう側、入口から入ってきたのは一人の女。
真っ赤なドレスを纏い、氷のようなノルディア城に咲く大輪のような存在感だ。
「セレナ・オルディス侯爵令嬢のお越しです」
入り口の従者の声に、セオドールがぴくりと反応する。
深紅の令嬢は、迷いもなく、静かにこちらに向かってきた。
ヒストリアは、その真っ直ぐな歩みを目で追う。
視線の先はただ一人―――セオドール。
次の瞬間、艶やかな声が目の前で聞こえた。
「ごきげんよう、セオドール殿下。久しぶりにお顔が見られて、胸が高鳴りますわ」
セオドールの眉がわずかに動いた。
「…セレナ。何の用だ」
「まあ、遥々やってきたというのに、ずいぶん冷たいお言葉ですのね」
セレナはくすりと笑う。
その笑みは完璧で美しく、そして鋭かった。
「あなたがくださった氷花、今も大切に飾っておりますわ」
ヒストリアの視界が、一瞬にして揺れた。
(…氷花…、あぁ、この女が殿下の…)
セレナの声は甘く、自信に満ち溢れていた。
「わたくしには、特別な意味があるものだと今でも思っています。殿下は違うとおっしゃったけれど…、本心はどうなのでしょう?」
(…殿下が氷花を見ながら今でも想っている人)
胸の奥が、ゆっくり沈んでいく。
セレナは何かに気付くかのように、ヒストリアへと首を傾けた。
「この方が噂の“花嫁”ね?」
「…関係ない」
セオドールが冷たく告げるが、セレナは意に介した様子もなく微笑む。
「…関係ない…ね。まぁ、どうせ季節が変わる頃には消えているでしょうから、確かに関係ないことですわね」
ヒストリアの胸がきゅ、と痛んだ。
鋭いというより、もはや悪意すら感じる。
セレナはさらに近づき、セオドールの腕に触れる寸前の距離まで入った。
近くで見ると、大きく巻かれた緋色の髪が、波を描いて揺れ、白磁のような肌が、赤を引き立てていた。
紫色の瞳が光り、ヒストリアを観察するように見下ろす。
セオドールは一歩前に出て、ヒストリアを背にやんわり隠すように位置を変えた。
「挨拶は不要だ。要件を言え」
冷たく言い放つ声に、セレナの唇が、かすかに愉快そうに歪んだ。
「殿下がそんな態度をとられると、余計に気になってしまいますわ」
セオドールが声を低くし、遮るように言った。
「ヒストリア、もう下がれ」
セレナの紫暗の瞳が細められ、確信を帯びる。
―――セオドールにとってこの女はただの人質じゃない。
「殿下が贈り物を庇うだなんて」
挑発するような甘い声。
セオドールの眉がわずかに動く。
感情を表に出すのを嫌う彼が、明らかに警戒していた。
セレナがふわりと笑う。
その笑みに、甘さはひとかけらもなかった。
「相当お気に入りなのかしら。所詮属国の人質でしょう?」
視線がヒストリアに突き刺さる。
美しく恐ろしい、笑顔に潜む棘。
セオドールは、ヒストリアの肩にそっと手を置き、彼女を後ろへ引き寄せた。
その仕草は静かだが、明らかに苛立っている。
「…下がれと言ってる。聞いてるのか?」
セオドールの言葉をよそに、
「殿下がそこまで気にかけていらっしゃる人質なら、わたくしも仲良くしたい―――」
セレナがそこまで言いかけたところでピタリと止まる。
―――パキンッ
側にあったテーブルの上のワインが、音を立てて凍った。
ワインの赤が一瞬で白い氷に閉じ込められる。
室内の温度が、目に見えて下がった。
ざわ…っと会場がざわめき、近くの貴族たちが蒼白になって距離を取る。
セレナは凍ったワインに目を落とし、その指先を口元へ寄せ――愉悦すら漂わせた。
「まあ…、相変わらず、お怒りになると魔力を制御できませんのね。それにしても、わたくしに“氷の牙”を向けるなんて」
しかし、その紫の瞳にはわずかな震えがあった。
彼女でさえ、本能的に感じ取ったのだ。
―――セオドールが、本気で怒っている。
セオドールはゆっくりとセレナを見据えた。
淡々とした声音なのに、氷より冷たい。
「…口を閉じろ」
空気が凍り付く。
セオドールの怒気は、周囲の呼吸さえ奪った。
ヒストリアは息を呑み、セレナは唇を震わせて、ほんの一歩だけ後ずさる。
その瞬間――、
「――セオドール、そこまでよ」
軽やかで、それでいて絶対に逆らえない声が響いた。
皇后ミレイユだ。
ドレスの裾を翻し、その後ろには皇帝レオンハルトの姿も見える。
ミレイユは優雅に微笑んでいるが、その瞳には冷たい光が宿っていた。
「舞踏会場を凍らせるなら、溶かす用の火炎魔法士を手配しないといけなくなるわ。…面倒でしょう?」
セオドールの眉がわずかに動く。
反論はしない。
ミレイユはセレナへ視線を移す。
「オルディス侯爵令嬢。ここは大公が主催の舞踏会を楽しむ場です。招かれた立場の者が、あまり棘を見せるのはどうかと思うわ」
言葉は穏やかなのに、背筋が凍る威圧。
セレナは笑顔を保とうとしながら、膝を折る。
「…ご無礼をいたしました」
ミレイユは満足げに一つ頷くと、ヒストリアの元へ歩み寄った。
「リア、ここはもういいわ。私と行きましょう」
手を伸ばし、優しく肩を抱く。
「…はい、ミレイユ様」
ちらりとセオドールを見る。
彼はヒストリアを引き留めたそうな視線を向けていたが、レオンハルトが肩をすくめながら彼に囁く。
「後で呼ぶから、今はミレイユに任せておけ。
…お前の温度、周りの酒より冷えてるぞ」
セオドールは小さく舌打ちした。
ミレイユはヒストリアの手を取り、優雅に微笑む。
「ここは空気が悪いわ。外で気分転換しましょう」
ヒストリアは静かに頷き、連れられていく。
振り返ったとき、セオドールが不機嫌と心配を混ぜたような表情でじっと見つめていた。




