番外編~勝負の後の約束~
「今日一日、お前は俺の“影”だ」
雪の闘技場での勝負の日から数日後、午前中に執務室に呼ばれたヒストリアに、セオドールが言った言葉。
「…はい?」
「何でも俺の言うとおりにしろと言っただろ」
舞踏会の夜までの間セオドールの言うとおりにするという条件で、剣の勝負に負けてしまったヒストリアだったが、流石に意味がわからず聞き返した。
「…どういう意味かわかりません」
「そのままの意味だ。俺から十歩以上離れるな」
淡々と告げるセオドールに、不安げな視線を向けるヒストリアだったが、実は、これにはある計画があった。
舞踏会のためのヒストリアの衣装を準備していたエマが、カインに泣きついてきたのだ。
ただでさえ舞踏会までの日があまりないのに、衣装を選ぼうとすると、ヒストリアが『動きづらそう』、『もう少しシンプルなデザインがいい』などと言うため、一向にドレス選びが進まなかったのだ。
そこでカインがセオドールに、一日ヒストリアを足止めするように頼んだ結果、こんなことになっている。
こうしてヒストリアは、セオドールが歩く度に後ろをついて回る羽目になった。
しかし、やり始めると意外にもヒストリアには向いていて、元騎士らしく、まるでセオドールの護衛をするように後にぴったりついている。
廊下を歩けば侍女たちがぎょっとし、執務室の机の後ろに控えれば、書簡を持ってきた大臣がまるで恐ろしいものでも見るような顔でその様子を伺っていた。
廊下を歩いている時、言われた通り少し後ろからついていくヒストリアだったが、ふとセオドールが振り向く。
「…おい。二歩後ろにしろ。遠すぎて気になる」
「十歩と言ったのは殿下です」
「俺は十歩以上離れるなと言ったんだ。二歩だって十歩以内だろ」
「横暴です。私を何だと思っているのですか?」
「敗者だ。負けたんだから言うとおりにしろ」
「はいはい」
「“はい”は一回だ」
「…はい」
その様子を柱の影から見ていたカインは、
(意外にもうまくやってるじゃないか)
思わずニヤけてしまった。
*******
夕暮れ時、執務室にいたセオドールが、ふと顔を上げてヒストリアに目をやる。
「そろそろ行くか」
「…今度は何ですか?」
一日中、セオドールの側で命令につき従っていたヒストリアは、呆れ顔でそう返事をした。
「白狼の世話だ」
ヒストリアは耳を疑う。
「…あの、殿下以外には懐かないという狼ですか?」
「あぁ、俺の魔獣白狼だ。機嫌は常に悪い。…怖いのか?」
「餌になるとか、機嫌が悪いとか、そういうことを言われたら、誰だって怖いと思います」
「なら、俺から離れないことだな」
セオドールが涼しい顔でそう言い放つ。
―――白狼の庭、吹雪の匂いがする雪原の一角に、その魔獣はいた。
真っ白な毛並み、氷のような青銀の瞳、まるでセオドールをそのまま獣にしたような威容。
セオドールの気配に気づいた白狼が、同時にヒストリアの姿を捉えた。
唸り声を上げ、牙を見せる。
「…膝をつけ。目を反らさず、ゆっくり」
ヒストリアは、言われたとおりに雪の上に膝をついた。
「…もし、喰われそうになっても助けてやる。恐れを捨てて敬意を払え」
何ひとつ安心できない言葉だったが、今はこの男に従うしかない。
すでに複数の白狼がヒストリアの周りに群がり始めていたからだ。
「…こんにちは、初めまして」
魔獣フェンリルは、通常の狼の二倍以上はある。
目線が下がったことで、その大きさがより一層感じられた。
一際大きな一頭の白狼がヒストリアに近づき、低く唸る。
セオドールは視線を変えず、ただその様子を見守っていた。
ヒストリアが小さく息を吐く。
「…綺麗な毛並みね」
手を伸ばして、指先で毛先に触れた。
喉の奥で唸るフェンリルの声が低く―――、
…甘い音に変わる。
そのまま、ヒストリアの膝に頭を乗せた。
「…触らせてくれるの?」
静かに、白狼の首の辺りをなでる。
動かないところを見ると、どうやらなでてもよいということなんだろう。
周りの白狼たちも、ヒストリアを取り囲み、匂いをかいだり鼻や頬をこすりつけたりしている。
「…どうやら、気に入られたようだな」
(俺以外に懐く白狼を、初めて見た)
正直、自分がここにいれば、少なくとも噛み殺したりはしないだろうと思っていたが、目の前の光景はセオドールにとっても意外だった。
白狼はさらに甘えたように、ヒストリアの手に頬を押しつけてくる。
その度にふわりと白い毛が舞って、彼女の赤い瞳に触れそうで―――、セオドールは何度目かで、小さなため息を吐いた。
「…そのくらいにしておけ」
「え?何がですか?」
「…なですぎだ」
「なでたら駄目でしたか?」
「…別に、駄目ではないが」
言葉を濁す。
その間にも白狼はヒストリアの腕に鼻先を押し付け、嬉しそうに尻尾を振っていた。
「可愛い。こんな大きいのに、こういうところは子犬みたい」
「子犬ではない。魔獣だ」
「でも甘えてる姿は可愛いです」
ヒストリアが笑うと、白狼はますます頭を押しつけてくる。
幸せそうな魔獣の様子に、セオドールの眉がぴくりと動く。
その後白狼たちは、ヒストリアの後を行儀よくついて歩いていた―――
……表面上は。
実際には一番大きな白狼が、ヒストリアの腕と腰の間に鼻先を突っ込み、
ぐい、とセオドールの方へ押す。
二人の距離が縮まった。
「ちょっ…、押さないで」
ヒストリアがよろめく。
肩がセオドールの胸にぶつかり、彼の外套に顔が触れた。
セオドールの手が、反射的にヒストリアの体を支える。
「…何をしている」
「い、いえ、私じゃ――白狼が…ッ…」
言い訳をしようとした瞬間、白狼はさらに一押しし、ヒストリアの身体がセオドールの腕の中に、完全に収まった。
「……」
「……」
抱き寄せられた形になったヒストリアは、息を呑むしかなかった。
外套の感触、彼の体温、耳元にかかる吐息―――、全部が近い。
ヒストリアは慌てて身を引こうとしたが、その前にセオドールの腕が回った。
強くはない。
けれど、逃げられない力だった。
「…離してください…っ」
「無理だな」
迷う様子もない、即答だった。
「な、なんで…ッ」
「今離すと、また押されるかもしれない」
静かな声。
白狼がしれっと尻尾を振るのが視界の端に見えた。
ヒストリアが身をよじろうとすると、抱いている腕の力がわずかに強くなる。
「動くな。転んだら危ないだろ」
「…転びません…っ、それにもし転んでも受け身を取れます」
「お前の受け身なんて信用していない」
「…っ、ちょ…っと、近いです…ッ…」
「だから?」
涼しい顔で言われ、ヒストリアは余計に混乱した。
胸に触れているので、彼の呼吸や心臓の音まで伝わってくるようだ。
セオドールは落ち着き払っているのに、腕の力だけは強く、離してくれる様子がない。
ヒストリアは勇気を振り絞って問いただす。
「……殿下、いつまでこうしているのですか…」
少しの沈黙。
ふいに、彼の指がそっと頬に触れた。
ヒストリアの髪に付いていた雪を払う、それだけの仕草なのに心臓が跳ねる。
「…もう少しこのままで」
低く落ちる声。
理由を問う間もなく、言葉が続く。
「いいから暴れるな。力を抜け」
耳元に落とされたその一言に、ヒストリアは息を呑む。
「…っ、で、でも…」
「寒いからちょうどいい」
からかうようで、でもどこか優しい声。
「…わ、私は懐炉ではありませんっ」
「今日は俺の言うとおりだろ?勝手に動くな」
そのまま、逃がさないように腰を抱いた腕がほんの少し締まる。
白狼はというと、満足げに二人の足元に座り込み、悠然と寛いでいた。
ヒストリアは顔を上げられない。
セオドールは離す気がまったくない。
―――雪の中、二人だけが妙に熱かった。




