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13.本物の名



瞼の裏には、闇―――

遠くで風の音が鳴る。どこからか、扉が軋む音がした。



――あぁ、これが死後の世界か。

ヒストリアはそう思った。



最後に聞いたのは、彼の低い声。


“楽にしてやる”


冷たく、静かで、慈悲のない響き。

だから、自分はもう生きていないのだと思った。


けれど、頬に触れるものは柔らかく温かい。

瞼の隙間から差す光が眩しく、息を吸うと乾いた薬草の香りが肺に落ちた。



―――おかしい。

もちろん、行ったことなどないが、死後の世界はこんなに明るくないはずだ。


彼女はゆっくり目を開いた。


天蓋の白が、視界にぼやけて揺れている。


しばらくして、自分が寝台にいることを理解した。



「…あ…れ、ここは…?」


喉が焼けるように乾き、声が掠れる。


「…ヒストリア様…!」


駆け寄ってきたのはエマだった。

安堵に目を潤ませている。



「よかった、目を覚まされて…」


ヒストリアはぼんやりと彼女を見上げる。

「…私…、死んで…ない?」


エマは泣き笑いのように頷いた。

「はいっ!殿下がお医者様を呼んでくださいました」



「殿下が…?…殿下が…、楽にしてやると仰って、直後から記憶が…。てっきり死んでしまったのかと…」



…あの言葉は、殺すためではなかった…?


脳裏に、あの光景が浮かぶ。

低く響いた声と目の前にかざされた青白い光を帯びた手。



「それは、睡眠魔法をかけられたのでは?」


エマの後ろにいる、初老の男性がそう切り出した。


「はじめまして。ノルディア城で医師をしております、ベルナードと申します。昨夜はヒストリア様の治療にあたらせていただきました」



あ…れ…?



―――ヒストリア…様?



彼女の呼吸が止まった。


“リヴィアナ”ではなく“ヒストリア”


聞き間違いかと思ったが、エマも先程そう呼んでいた。



あの時、確かにセオドールに本当の名前を告げてしまった。

けれど―――

なぜ皆がその名前を知っているんだろう。


「…エマ…、名前…」


「殿下のご指示です。今後、花嫁様でもリヴィアナ様でもなく、ヒストリア様とお呼びするようにと」


自分の名前などにこだわりなんかなさそうな彼が、そんな指示をしたことが意外だった。


数週間ぶりに自分の名前で呼んでくれる人がいることに、心の中が温かくなる。

ヒストリアの頬が自然に綻んだ。



「夜分に治療をしてくださり、ありがとうございます。お酒を飲んで倒れただけなのに…、あんなことになるとはお恥ずかしいです」


ベルナードの眉がぴくりと動き、静かに眼鏡を持ち上げる。


「“だけ”で済んでいたら、昨夜のようにはなりません」

その仕草や声は穏やかだが、妙に威圧感を帯びている。



「たかが葡萄酒でも、体調と疲労の具合によっては毒にもなります。ヒストリア様はここ数日、まともにお休みになっていなかったのではないですか?それに緊張が加わり、さらに酒が体に入ったとなれば、倒れて当然です。」


ヒストリアはしゅんとした。


「…それに、殿下のご判断が遅ければ、今頃こうして話せていなかったかもしれませんよ」


「え…?」


「睡眠魔法で眠っていただいていたおかげで、呼吸や脈は少なくて済むし安定もします。その後、すぐに私を呼んでくださいました。おかげで、体内の酒の成分をすぐに排出し、大事には至らなかったのです」


「……」


(私が偽物だと分かったはずなのに、どうして助けてくれたんだろう?)


「あとは、水分と栄養をしっかり補ってゆっくり休めばすぐに回復されますよ」


医師が小さく微笑んだ。




*******

しばらくして、医師とエマが部屋を出ていくと、部屋に残ったのは柔らかな日差しと、少しの静けさだった。


寝台に横になったままぼんやりしていると、扉を軽く叩く音がする。


「…姫、お加減は?」


低く落ち着いた声。

入ってきたのはカインだった。


黒衣に金の留め具がついた上着を着た姿は整っていて、特徴的な琥珀色の目にはいつもの軽薄な光がある。


「…カイン様、ご迷惑を…」


「迷惑?」

カインが笑う。


「いえ、むしろ退屈しのぎにはちょうどよかったですよ。“偽の花嫁が倒れ、殿下が自ら治療を施す”―――なかなか劇的な夜でした」


「…私、嘘を…。申し訳ありませんでした」

思えば、カインは最初から自分の身分を怪しんでいた。


「いや、ヒストリア様にも事情があったのでしょう」


「…私はなぜ殺されなかったのでしょう」

目が覚めてから何度も頭の中でそれを考えている。


「うー…ん、本当のことを言ったからでしょうか」


「名前は本物でも、身分は偽りです」


「そうでしょうか?」

カインがあっさりそう言った。


「え…?」


「…少し調べさせていただきました。私も仕事なので、気分を害されないでくださいね」

カインは軽く笑って、傍にあった椅子の背に肘をかけた。


「殿下は嘘がお嫌いなんです。身分についてですが、血統的にはあなたはフェルバール王の次女です。()()()()()()としてはぎりぎり嘘ではないんじゃないですかね」


「…そうでしょうか?親切にしてくれたエマやノエルにも嘘をついていたわけですし、今夜中にでもノルディアを出ようと思っています」


「……?」


「お調べになったのならご存知かもしれませんが、病の母がおります。あの時は、母や仲間を盾に取られて断れずこの国に来ましたが、殿下は昨日、フェルバールを不問にすると仰ってくださいました。…ですから、フェルバールからこっそり母を連れ出して、どこか別の国に行こうと―――」

「…何を仰っているんです?」


ヒストリアの言葉を遮ったのは、今まで黙って話を聞いていたカイン。


「ご自分が、どこかへ勝手に行けると思ってます?」


「え…?」


「当初の姫と違うとはいえ、貴女は贈り物の花嫁です。殿下の許可なしにはこの城から出ることすらできません」


それは、想定外だった。

自分が偽物だということを明かし、フェルバールには何も影響がないとなれば、当然この役目からは解放されると思っていたヒストリアには、カインの言葉が理解できなかった。



「…つまり、ここに残れと?」


「当然です。殿下から姫を返すように言われていませんので」



…なんのために?


「それに、貴女がいるとあの暴君のいろいろな一面が見られて楽しいんですよ」


琥珀色の瞳を細めて、おかしそうに笑う。



―――それでは、執務に戻ります。

そんな風に言って、カインは部屋を出ていった。




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