番外編・知らない場所(後編)
ヒストリアが通された部屋は、狭かった。
石造りの壁に、小さな窓。
簡素な寝台と机がひとつ置かれているだけの、使用人用の部屋だ。
騎士たちは城の大部屋にまとめて通されているらしい。
長椅子や毛布を並べ、互いに身体を寄せ合って夜を越す。
そんな場所だと聞いた。
だがヒストリアは、騎士団の中で唯一の女性だったため、侍女と同じように、城の使用人が使う空き部屋をあてがわれたのだ。
「……」
寝台に腰を下ろしたヒストリアは、両手を見つめていた。
頭の中が、ずっと混乱したままだった。
ここは、ノルディア大公城。
何度も歩いた廊下に見慣れた景色。
それなのに、誰も自分を知らない。
ノエルも、カインも。
そして、セオドールでさえも。
胸の奥が、じわじわと痛んだ。
その時、扉が控えめに叩かれる。
「失礼します」
静かな声とともに、扉が開く。
侍女が一人、盆を持って入ってきた。
「騎士様、簡単な食事を…」
その顔を見た瞬間、ヒストリアは思わず立ち上がった。
「エマ…?」
侍女の手がびくりと震える。
盆の上の紅茶が、わずかに揺れた。
「…え?」
エマは驚いた顔でヒストリアを見る。
「エマ…っ…!」
ヒストリアは駆け寄った。
胸が苦しくなるほど懐かしい顔だった。
柔らかな栗色の髪に優しい瞳。
間違えるはずがない。
「エマ、よかった…!」
思わずその腕を掴む。
「…みんなおかしいの…っ、みんな、私のことわからないって…」
必死に言葉が溢れる。
「でもエマはわかるでしょ?私よ、ヒストリアよ!」
エマは、ただ困惑した顔をしていた。
「…騎士様?」
恐る恐る口を開く。
「…あの、どうして、私の名前を…?」
その声には、本気の戸惑いしかなかった。
ヒストリアの手が、ゆっくりと力を失う。
「…っ…、」
その時、視線がエマの腕に止まった。
袖の隙間から見える、赤く歪んだ痕。
ヒストリアははっと息を呑む。
「エマ…ッ、」
腕を掴む。
「なんで火傷が治ってないの?」
エマが目を見開く。
「あの時、薬草でよくなったはずなのに…っ」
エマはぽかんとした顔をした。
そして困ったように笑う。
「これは…、子供の頃の火傷ですよ」
「え…?」
「昔、熱い鍋をひっくり返してしまって」
何でもないことのように言う。
「ずっとこのままです。お見苦しいものを見せて申し訳ありません」
その言葉に、ヒストリアは首を振った。
「嘘…!」
声が強くなる。
「前の花嫁に熱湯をかけられたって言ってたじゃない!」
エマの顔が青くなる。
「…花嫁?」
完全に混乱している顔だった。
「騎士様…、一体何のお話でしょうか…」
ヒストリアの胸が締め付けられる。
エマまで、自分を知らない。
「…ごめんなさい」
ヒストリアは小さく呟いた。
「変なこと言って」
エマは何も言えずに立ち尽くしている。
ヒストリアはそれ以上何も言わず、そのまま部屋を出た。
廊下を歩く。
足は自然と動いた。
どこを曲がれば外へ出られるか、身体が覚えている。
それが、余計に苦しかった。
(なんで…)
どうして、自分はこの城のことをこんなに知っているのか。
どうして誰も、自分を知らないのか。
やがて外へ出る扉を開ける。
冷たい空気が頬を打つこの場所は、庭園だ。
美しい花や整えられた木々。
噴水に温室。
やはり見慣れた景色に、ヒストリアはゆっくり歩き出した。
石の小道を進む。
なんだったら、昨日もここでエマとお茶を飲んだ。
いつものように。
―――でも、違う。
そのことを知っている人は、一人もいない。
胸が、ずきりと痛んだ。
(…そうか)
ヒストリアは空を見上げた。
元々、自分は平民だ。
王の私生児とはいえ、ただの平民の娘。
大公妃になる方が、どう考えてもおかしいのだ。
あの時間は、自分が作り出した夢だったのだろうか。
そんな事を考えている時だった。
「…何をしている」
低い声が響いた。
ヒストリアの身体が強張る。
振り返ると、そこに立っていたのはセオドールだった。
月の光を浴びて、透き通るような銀髪が光り、青い瞳は、冷たくこちらを見ている。
「…セオ――…」
思わず口にしかけて、ヒストリアは言葉を飲み込んだ。
胸の痛みを呑み込んで、言い直す。
「…大公殿下」
セオドールの眉がわずかに寄った。
「この場所は勝手に入っていいところではない」
冷たい声だった。
「フェルバールの騎士は礼儀を知らないのか?」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
それでもヒストリアは、彼の声を愛おしく思ってしまった。
どんなに冷たくても、彼の声だった。
ヒストリアは小さく息を吐く。
「殿下は…」
静かに言った。
「夜毎に白狼のお世話をされていますよね」
セオドールの目が細くなる。
「…何?」
不審そうな顔だった。
ヒストリアは続ける。
「毛並みを綺麗に整えて」
「……」
「白狼たちも満足そうにしていていました」
その言葉を聞いた瞬間、セオドールの表情がほんの一瞬だけ変わった。
だがそれもすぐに消え、青い瞳が鋭く光る。
「…お前、」
声が低くなる。
「間者か?」
ヒストリアの赤い瞳が揺れた。
「そうであれば、あの贈り物の命がなくなるだけだが」
セオドールは淡々と言った。
「慎重に答えろ」
完全に疑っている声だった。
ヒストリアは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟く。
「…もういいです」
その言葉に、セオドールが眉を寄せる。
ヒストリアの目からは、涙がこぼれていた。
「…誰に、わかってもらえなくても…」
声が震える。
「あなたには…、わかってもらえると思っていました」
涙が次々と落ちる。
「こんな風に突き放すなら…」
声が崩れる。
「なぜ愛してるなどと言ったんですか…っ!!」
セオドールの表情が変わる。
ヒストリアは泣きながら叫んだ。
「私のセオドール様を返して…!!」
叫んだ瞬間、世界がぐらりと揺れた。
視界の端が滲む。
庭園の景色が、まるで水面に映った影のように揺らぎ始める。
冷たい風の感触が遠のいていき、代わりに誰かの声が聞こえた。
「―――ヒストリア」
低い声だった。
どこか、遠くから呼ばれているような感覚。
「ヒストリア」
もう一度、呼ばれる。
庭園の景色が崩れていく。
月の光も、噴水も、目の前に立っていたはずのセオドールの姿さえも、霧のようにほどけていく。
「…ん…っ、」
まぶたが重い。
誰かに肩を揺さぶられている。
ゆっくりと目を開ける。
ぼやけた視界の向こうに、顔があった。
銀色の髪と深い青の瞳。
「どうした」
心配そうな声だった。
「うなされていたぞ」
ヒストリアの呼吸が止まる。
目の前にいるのは、セオドールだった。
さっきまで庭園にいたはずなのに、頭が追いつかない。
「…っ…!」
身体が震える。
セオドールに言われた言葉が、まだ耳に残っている。
“誰だ”
“身分を弁えろ”
冷たい声と突き放す瞳。
その記憶が一気に蘇った。
「嫌っ!!」
ヒストリアは反射的に顔を背けた。
セオドールが目を見開く。
「…ヒストリア?」
ヒストリアは起き上がり、セオドールから離れようとした。
「待て」
すぐに腕を掴んだセオドールの声には、明らかな困惑が混じっていた。
「どうしたんだ」
ヒストリアは激しく首を振る。
「やめて…っ、」
涙が溢れた。
「触らないで…!」
セオドールの顔が険しくなる。
「ヒストリア!」
「殿下なんて嫌い!」
泣き叫ぶ声。
「…ッ…!」
セオドールは逃げようとするヒストリアの肩を掴み、そのまま寝台へ押し倒した。
「理由を言え」
低い声。
「急にどうした」
ヒストリアは荒く息をつく。
その時、ようやく周囲が視界に入った。
天井と、見慣れた装飾。
重厚な天蓋のカーテン。
庭園ではなく、ここは室内だ。
しかも、セオドールの寝室。
ヒストリアの瞳が揺れる。
「…セオドール…さま?」
小さく呟いた。
目の前には、心配そうに自分を見おろすセオドールがいる。
あの、冷たい瞳とは違う、見慣れた深青の眼差し。
その瞬間、再び涙が溢れた。
「セオドール様…!」
ヒストリアは勢いよく起き上がり、彼に抱きついた。
「…どうした?」
ヒストリアは震えながら言った。
「…怖い夢を見ました…」
涙が止まらない。
「夢の中で、ひどいことを…っ、」
抱き締め返したセオドールの目が鋭くなる。
「…誰にやられた?」
ひどく優しい声だった。
「俺が報復してやる」
ヒストリアは、少しだけ間を置いて言った。
「…セオドール様です」
セオドールは、一瞬言葉を失った。
数秒の沈黙が落ちる。
やがて、ゆっくりと眉が寄った。
「…どういう意味だ」




