番外編・知らない場所(中編)
ノルディア城の玄関ホールの空気が、ふと張り詰めた。
ざわめきは小さく、けれど確かに広がっていく。
整列していた兵士たちの背筋が一斉に伸び、視線が一方向へ向いた。
ヒストリアもつられるようにそちらを見る。
大階段の上。
重い扉が静かに開き、一人の男が姿を現した。
その瞬間、ヒストリアの心臓が大きく跳ねた。
銀色の髪。
氷のような深青の瞳。
長い外套を纏い、ゆっくりと階段を降りてくるその姿は、誰が見ても一目でわかる威圧感を放っている。
セオドール・ヴァル=ノルディア。
ノルディア大公国の主。
そして、ヒストリアの夫である人物のはずだ。
「……」
息が詰まる。
何度も見てきたはずの姿なのに、今の彼はどこか遠い存在のように見えた。
階段を降り切ったセオドールは、ホール中央に立つリヴィアナへと視線を向ける。
その目には、どこか温度がなかった。
「…属国の贈り物か」
低い声が、静かに響く。
歓迎の色は一切ない。
リヴィアナは一瞬だけ顔をこわばらせたが、すぐに微笑みを作った。
「リヴィアナと申します」
優雅にドレスの裾を持ち上げ、礼をする。
「お出迎えいただき、光栄ですわ。大公殿下」
その声は柔らかく、王女らしい気品に満ちていた。
しかし、セオドールの表情は微動だにしない。
氷のような視線で、ただ彼女を見ている。
そして、淡々と言った。
「おい」
その声に、後ろに控えていたカインが一歩前に出る。
「はい」
「王女を塔に入れておけ」
玄関ホールが、一瞬で静まり返った。
誰も声を出せない。
リヴィアナが、ゆっくりと顔を上げた。
「…なっ…」
信じられないという顔だった。
「い、今…、なんとおっしゃいましたの?」
セオドールは、まったく同じ声で繰り返す。
「塔に入れておけ、と言った」
あまりにもあっさりとした命令。
まるで荷物の扱いのようだった。
リヴィアナの顔が一気に赤くなる。
「わ、私は王女ですわよ!?」
ヒステリックな声がホールに響いた。
「フェルバール王国の王女です!そんな扱い―――…」
セオドールの視線が、わずかに細くなる。
「うるさい」
冷たい一言だった。
その声は低く、抑えられているのに、ぞっとするほど威圧的だった。
「属国からの贈り物に興味はない」
一歩、セオドールが近づいた。
「城に入る以上、余計なことをされては困る」
リヴィアナの声が震える。
「わたくしは…ッ…」
「カイン、面倒だ。早くしろ」
青い瞳が、鋭く光った。
兵士たちの間に緊張が走る。
ヒストリアは、ただ呆然とその光景を見ていた。
あまりにもセオドールらしく、容赦がない。
相手が王女でも関係ない。
氷の暴君と呼ばれる理由が、よくわかる。
リヴィアナは完全に怒り狂っていた。
「ふざけないでください!」
声が裏返る。
「こんな屈辱…、父上に伝えれば――…」
「好きにしろ」
セオドールは興味なさそうに言った。
「伝えたところで、何も変わらない」
「…っ…!」
リヴィアナは言葉を失う。
カインが静かに前へ出た。
「王女様」
穏やかな声だった。
「塔のお部屋へご案内します」
「塔なんて嫌!!」
カインは淡々と頷く。
「城の中で、一番安全な場所ですので」
リヴィアナは怒りで震えながらも、それ以上何も言えなかった。
兵士たちに囲まれ、連れて行かれていく。
玄関ホールに、静けさが戻った。
ヒストリアは、ずっとセオドールを見ていた。
胸が痛いほど恋しくて懐かしい。
けれど、彼の視線は一度もこちらを見ることはなかった。
思わず、唇が動く。
「…セオドール様」
ほんの小さな声だった。
それでも、セオドールの足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
青い瞳が、ヒストリアを捉えた。
その視線には、何の感情もない。
ただ、冷たいだけだった。
「…誰だ」
その一言が、胸に突き刺さる。
ヒストリアは息を呑んだ。
「……」
言葉が出てこない。
セオドールの眉がわずかに寄る。
「護衛騎士か」
視線が、ヒストリアの隊服を一瞥する。
「身分を弁えろ」
淡々とした声。
「俺の名を気安く呼ぶな」
胸がぎゅっと締めつけられる。
「……」
ヒストリアは何も言えなかった。
言葉が喉で凍りついている。
セオドールはそれ以上興味を示すこともなく、視線を外した。
「フェルバールの騎士団の連中は、今晩に限り宿泊を許可する。明朝、陽が上る前に出ていけ」
「承知しました」
命令はそれだけだった。
セオドールは背を向ける。
銀の髪が揺れ、外套が翻った。
そのまま、振り返ることなく歩き去っていく。
ヒストリアは、ただその背中を見つめていた。
遠ざかっていく背中。
何度も自分を守ってくれた背中。
今はまるで、知らない人のようだった。




