番外編・知らない場所(前編)
「……ア!…リア…!」
何度も自分の名前を呼ぶ声に、ヒストリアはゆっくりと意識を引き上げられた。
ぼんやりとした視界の向こうで、誰かがこちらを覗き込んでいる。
「いい加減、起きろって」
少し苛立った声に、ヒストリアはまぶたを瞬かせた。
白い息。
灰色の空。
舞い落ちる雪。
そして目の前にいるのは―――…
「…ラウル?」
思わず口にした名前に、男は眉をひそめた。
ラウル・ベルグ。
フェルバール王国第三騎士団の騎士で、かつてヒストリアと共に任務についたこともある同僚だ。
見間違えるはずがない。
「なんだよ、やっと起きたか」
ラウルは肩をすくめた。
「護衛中に居眠りとか、隊長に見つかったら怒鳴られるぞ」
「…護…衛?」
ヒストリアは瞬きを繰り返した。
頭がうまく回らない。
さっきまで、自分は確か、ノルディア大公城の自室にいたはずだ。
朝の光が差し込んで、エマがカーテンを開けて、セオドールが―――、
そこまで考えたところで、違和感が胸を締め付けた。
空気が、あまりにも冷たい。
ヒストリアはゆっくりと体を起こした。
足元は雪に覆われている。
見渡す限り、白い世界だった。
風にあおられた雪が横殴りに舞っている。
どう見ても、城の中ではない。
「…ここ…、どこ…?」
混乱したまま呟くと、ラウルが呆れたように言った。
「寝ぼけてないで、さっさと歩け」
「え?」
「こんな雪道に置いていかれたいのか?」
ラウルは顎で前方を示す。
ヒストリアは反射的にそちらを見た。
そこで、はっと息を呑む。
雪の向こうに、馬車が見えた。
重厚な装飾の施された王族用の馬車。
雪に半ば埋もれながらも、はっきりとわかる。
その形に、ヒストリアは見覚えがあった。
胸がどくりと鳴る。
(あれ…?)
あの馬車は。
自分が、ノルディア大公国へ贈り物として送られてきたときに乗っていた馬車だ。
「…あの馬車に誰が乗ってるの?」
思わずラウルに聞くと、彼は怪訝そうに眉を寄せた。
「お前、本当に大丈夫か?」
「…え?」
「リヴィアナ王女に決まってるだろ」
その名前を聞いた瞬間、ヒストリアの思考が止まった。
「…リヴィアナ…?」
リヴィアナ・フェルバール。
フェルバール王国の王女だ。
そして、ヒストリアの腹違いの姉でもある。
王の私生児として平民の家で育ったヒストリアとは違い、彼女は王宮で大切に育てられた正統な王女だった。
会った回数は数えるほどしかないが、その姿はよく覚えている。
白金色の髪。
王妃譲りの緑の瞳。
「…なん…で…」
ヒストリアは呆然と呟いた。
なぜ、今さらリヴィアナの護衛などしているのか。
そもそも、自分はもうフェルバール王国の騎士ではない。
気がつけば、ヒストリアは自分の格好に目を落としていた。
そして、息を呑む。
そこには、見慣れたはずの服があった。
フェルバール王国第三騎士団の隊服。
厚手の外套に、騎士用の装具。
腰には剣まで下げている。
「…どうして…」
訳がわからない。
夢にしては、あまりにも現実だった。
「ほら、行くぞ」
ラウルに肩を叩かれ、ヒストリアは慌てて歩き出した。
隊列の中に加わりながら、周囲を見渡す。
第三騎士団の騎士たちが、黙々と馬車の護衛をしている。
雪はますます強くなっていた。
やがて、視界の先に大きな影が見えてくる。
城壁と巨大な門。
そして―――…
ヒストリアの心臓が、大きく跳ねた。
そこにあったのは、見間違えるはずもない建物だった。
ノルディア大公城。
雪の中にそびえ立つ、北方の城だ。
(…どうなってるの…?)
ヒストリアの頭の中は、もう混乱でいっぱいだった。
ここは、今や自分にとって帰る場所だ。
家と言ってもいい。
けれど今の状況では、まるで初めて訪れた場所のようだった。
城門が開き、馬車がゆっくりと中へ進む。
その時だった。
城の中から、一人の男が歩み出てきた。
ヒストリアはその姿を見て、息を止めた。
カイン・ヒックス。
セオドールの側近で、ノルディア大公国の重臣の一人だ。
(…カイン様…)
思わず声が漏れそうになる。
だが、その瞬間、馬車の扉が開いた。
中から、ゆっくりと一人の女性が降りてくる。
白金色の髪、深緑の瞳、優雅な所作。
リヴィアナ王女だった。
ヒストリアは、言葉を飲み込む。
カインはリヴィアナの前に歩み寄り、丁寧に頭を下げた。
「長旅ご苦労様でした」
低く落ち着いた声。
ヒストリアがよく知るカインの声そのものだった。
「私は大公殿下の側近を勤めております、カイン・ヒックスと申します」
その声を聞きながら、ヒストリアはじっと彼を見つめた。
けれど、カインはヒストリアを一度も見なかった。
まるで、そこにいないかのように。
胸の奥が、ひどくざわつく。
「護衛騎士の皆さんにはここでお帰りいただきたいところですが…、」
カインが続ける。
「今夜はもう遅いですし、城の外は吹雪です。部屋を用意しましょう」
そのまま、城の中へと歩いていく。
ヒストリアたちも後に続いた。
城の中に入った瞬間、温かい空気が身体を包む。
そして、ヒストリアは足を止めた。
見慣れた景色だった。
大きな玄関ホール。
高い天井に石造りの柱。
何度も歩いた場所だ。
なのに、どこか遠い。
まるで他人の家に入り込んだような感覚だった。
その時、整列している兵士の列の中に、一人の顔を見つける。
「…ノエル…!」
思わず声を上げてしまった。
若い兵士が、驚いたようにこちらを見る。
ヒストリアの事を何度も助けてくれ、一緒に剣の稽古もしているノエルだった。
ヒストリアは思わず駆け寄る。
「ノエル、私のことわかる?」
ノエルは目を瞬かせた。
「…え?」
そして、困ったように首をかしげる。
「…誰っすか?」
その言葉に、ヒストリアの心臓が冷たく沈んだ。
「知り合いか…?」
隣の兵士がノエルに小声で聞いている。
「…いや、知らないっす」
ヒストリアは、立ち尽くした。
その肩を、ラウルが掴む。
「おい」
低い声だった。
「お前、本当にどうしたんだ?」
心配そうな視線。
「さっきから様子がおかしいぞ」
ヒストリアは言葉を失った。
胸の奥で、嫌な予感が静かに広がっていく。
まるで、この世界には最初から自分などいなかったかのような感覚だった。




