表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
121/128

番外編・新しい命



大公城の庭園は、春の光に満ちていた。


桃色の花が風に揺れ、噴水の水音が穏やかに響いている。


その一角で、ヒストリアは小さなテーブルに腰掛け、向かいに立つ侍女エマの話を聞いていた。


「…最近、あまり召し上がっていませんね」


「そう?」


ヒストリアは首を傾げる。

確かにここ数日、食欲が少し落ちている気はしていた。


「妊娠初期は特に大切なんです。体を冷やさないように、刺激物も避けて―――、」


エマは真剣そのものだ。


その時、庭園の回廊の陰で、ぴたりと足を止めた人物がいた。


セオドールである。


(妊娠初期…?)


一瞬、思考が止まる。


そんな、動けなくなった彼に気付かないまま、ヒストリアは笑った。


「元気な赤ちゃんが産まれますように」


ヒストリアのその言葉が、決定打だった。

セオドールの脳内で、ありとあらゆる可能性が高速で組み立てられていく。


医師は呼んだのか?

なぜ俺に言わない?

食欲がないのはいつからだ?



*******

翌日、大公城の訓練場は、朝から鋭い金属音に満ちていた。


乾いた空気を裂くように、剣が打ち合わされる音が響く。


兵士たちは円を作り、その中央で行われている模擬戦を固唾を呑んで見守っていた。



その中心にいるのは、大公妃ヒストリア。


訓練用の剣を手に、若い兵士と向き合っている。


「遠慮はいりません」


静かに微笑むが、目は真剣だ。


兵士は緊張で喉を鳴らしながらも、踏み込む。

鋭い一撃だが、ヒストリアは軽やかに受け流し、逆に懐へ入る。


周囲の兵士たちが息を呑んだ、その時だった。

訓練場の扉が勢いよく開いた。


「何をしている」

低く、よく通る声に、その場の空気が一瞬で張り詰める。


そこにはセオドールが立っていた。


兵士たちは一斉に姿勢を正す。


だがヒストリアは、ちょうど兵士の剣を受ける瞬間で、振り下ろされる剣に集中していた。


すると、次の瞬間、さらに強い衝撃が割って入った。


ガン、と鈍い音。


セオドールの剣が兵士の一撃を受け止め、同時に空いた左手がヒストリアの手首を制する。


「…っ…!」


ヒストリアが目を見開く。


兵士は青ざめて後ずさった。


「殿下!?」


「下がれ」

短い命令に、兵士は慌てて距離を取る。


ヒストリアは拘束された手首を振りほどいた。


「危ないじゃないですか!」


「それはこっちの台詞だ」


セオドールの声は、珍しく感情を帯びていた。



「なぜこんなことをしている」


「訓練です」

きっぱりと返す。


「兵士たちと朝の訓練をしていました」


「聞いていない」


「訓練場の使用許可をくださったのは殿下です」

静かな反論。


その様子に、周囲の兵士たちは、完全に息を止めている。


セオドールは眉を寄せた。


「おとなしく部屋にいろ」


ぴたり、と空気が止まる。


ヒストリアの瞳がわずかに揺れた。


「…それは、どういう意味ですか?」


「そのままだ」


「なぜ急にそんなことを言われるんですか?」

一歩踏み出すヒストリア。


「なぜ、って…、」


理由が、言葉にならない。


数秒の沈黙の後、セオドールは低く言う。


「…他に、何か俺に言うことがあるんじゃないのか」


ヒストリアは瞬きをする。


「……?」

本気で分かっていない顔だった。


その様子に、セオドールの表情がさらに険しくなる。


「…あるだろ」


「ありません」


間違いなく本心。


そして、ふと首を傾げる。


「もしかして、セオドール様も体を動かしたかったのですか?」


「…何?」


ヒストリアはくるりと剣を回し、構え直す。


「でしたら、お相手します」


その目は、完全に挑戦者のそれだ。


「やめろ」


「なぜです」


「今は、そんなことをしている場合では―――」


言い終わる前に、ヒストリアが踏み込む。


鋭い突きに、反射的にセオドールが受けた。


乾いた衝突音が響く。


今度は下段からの払い。

セオドールは受け流すが、足運びがわずかに遅れる。


ヒストリアはそれを見逃さなかった。


くるりと身を翻し、背後を取る。


「……!」

振り向いた瞬間、剣先が喉元で止まった。



静寂。

兵士たちが石像のように固まる。


ヒストリアの息は乱れていない。


「…私の勝ち、でしょうか」


あくまで冷静なヒストリアの声に、セオドールは数秒、何も言わなかった。


やがて「ああ」と、言って、あまりにもあっさりと負けを認める。


訓練場がざわついた。


あの大公殿下が、負けた。


「今日はこれで終わりだ」

低い声。


「まだやれます」


「だめだ」


「だって、本気じゃないじゃないですか!」


「だから何だ」


ヒストリアは不満げに眉を寄せる。


「納得がいきません」


「俺だって納得いかない」


ぽつりと零れた本音。


訓練場には重い沈黙が落ちていた。



兵士たちの心の声は一つ。


(殿下、どうなさったんだ…?)


そしてセオドールは、誰にも説明しないまま背を向ける。


お互い納得がいかないまま、ヒストリアは剣を取り上げられ、その日の稽古はそれで終わった。



*******

夜、正装に着替えさせられたヒストリアは、まだ少し機嫌が悪いまま食堂にいた。


長いテーブルに料理が並ぶ。


新鮮な魚のマリネに、ヒストリアがフォークを伸ばした瞬間。


「それはやめろ」


セオドールの言葉に、その場の空気が凍る。


「…え?」


「生の魚はよくない」


「どうしてですか?いつも食べてます」


「他の料理に変えろ」


厨房の担当がざわつく。


ヒストリアが今度はグラスに手を伸ばす。


「それもだめだ」


今度は明確に怒気を帯びていた。


「…セオドール様?」


「誰がワインなんか用意した。果実水を持ってこい」


「…以前ワインを飲んで倒れて以来、お酒の成分がほとんど入っていないものだと、セオドール様が用意してくださったものですよ?」


「ほとんどって、少しは入っているだろ」


「いつも飲んでます」


「今はダメだ」


侍女たちも青ざめ始める。


「部屋の温度も低い。担当は何をしている」


「一体どうしたんですか!」


ついにヒストリアも声を上げた。


「剣の稽古もダメ、部屋でおとなしくしていろなんて言うし、料理や飲み物にも文句ばかり。部屋だって寒くありません!」


セオドールは立ち上がる。


「体を冷やすなと言われただろう」


「…は?」


「刺激物も避けろと」


「何の話ですか?」


「…妊娠、しているんだろう?」


食堂中の時間が止まった。


ヒストリアは目を瞬かせる。



「…していませんが」


「嘘をつくな」


「ついていません」


「俺は庭園で聞いた」



ヒストリアは数秒、考えた。



そして、思わず吹き出す。



「…ふふッ…、…それ、猫の話です」


「…何?」


「城に迷い込んだ野良猫がいるんです。あの子、食欲がなくて。妊娠初期かもしれないとエマと話していました」


凍りつく空気。

セオドールの顔から血の気が引いた。


「…猫…だと?」


「はい、猫です」


耐えきれず、ヒストリアは笑い出す。


控えている側近のカイン、侍女、兵士、料理人たちは、必死に顔を伏せる。


セオドールはゆっくりとカインの方に振り返った。


「…猫が城に入り込むとはどういうことだ」


「は?」


「警備は何をしている」


「いや、猫くらい―――」


怒りの矛先が完全に変わった。


「対策を強化しろ」


そう言い残し、セオドールは去った。



*******

自室に戻ったセオドールは、椅子に腰掛けたまま窓の外を見ている。


表情は険しい。


そこへ、控えめに扉が叩かれた。


返事はしなかったが、中に入ってくる。


ヒストリアが静かに近づき、彼の背後に立った。


「セオドール様」


返事はない。


ヒストリアはそっと背中から腕を回した。


「…子供ができたかもしれないと聞いて、あそこまで気を遣ってくださるとは思いませんでした」


セオドールの肩が、わずかに動く。


「当たり前だろう?お前の体だぞ」


ヒストリアは頬を緩める。


「セオドール様」


「何だ」


「そんなに大切に思ってくださっているのですね」


「……」


少しだけ、気まずそうな沈黙。


ヒストリアはぎゅっと抱きついた。


「セオドール様、大好きです」


セオドールが深く息を吐いて、やがて彼の手がそっと彼女の腕に触れる。


「…人騒がせな猫だ」


「騒いだのはセオドール様だけです」


「明日、ちゃんと捕まえろ」


「どうなさるのですか?」


「…春とはいえ、夜は冷える。城の中に入れてやれ」


「はい」



セオドールの温かさに触れて、まだ存在しない未来を、ヒストリアは無意識に思い描いてしまう。


小さな手

青い瞳

可愛い笑い声


そんなものはまだどこにもない。

けれど腕の中のこの人は、その先にあるものもまた、守る覚悟をしてくれているのだ。


新しい命がこの城を駆け回るのは、もう少し、先のこと。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ