番外編・新しい命
大公城の庭園は、春の光に満ちていた。
桃色の花が風に揺れ、噴水の水音が穏やかに響いている。
その一角で、ヒストリアは小さなテーブルに腰掛け、向かいに立つ侍女エマの話を聞いていた。
「…最近、あまり召し上がっていませんね」
「そう?」
ヒストリアは首を傾げる。
確かにここ数日、食欲が少し落ちている気はしていた。
「妊娠初期は特に大切なんです。体を冷やさないように、刺激物も避けて―――、」
エマは真剣そのものだ。
その時、庭園の回廊の陰で、ぴたりと足を止めた人物がいた。
セオドールである。
(妊娠初期…?)
一瞬、思考が止まる。
そんな、動けなくなった彼に気付かないまま、ヒストリアは笑った。
「元気な赤ちゃんが産まれますように」
ヒストリアのその言葉が、決定打だった。
セオドールの脳内で、ありとあらゆる可能性が高速で組み立てられていく。
医師は呼んだのか?
なぜ俺に言わない?
食欲がないのはいつからだ?
*******
翌日、大公城の訓練場は、朝から鋭い金属音に満ちていた。
乾いた空気を裂くように、剣が打ち合わされる音が響く。
兵士たちは円を作り、その中央で行われている模擬戦を固唾を呑んで見守っていた。
その中心にいるのは、大公妃ヒストリア。
訓練用の剣を手に、若い兵士と向き合っている。
「遠慮はいりません」
静かに微笑むが、目は真剣だ。
兵士は緊張で喉を鳴らしながらも、踏み込む。
鋭い一撃だが、ヒストリアは軽やかに受け流し、逆に懐へ入る。
周囲の兵士たちが息を呑んだ、その時だった。
訓練場の扉が勢いよく開いた。
「何をしている」
低く、よく通る声に、その場の空気が一瞬で張り詰める。
そこにはセオドールが立っていた。
兵士たちは一斉に姿勢を正す。
だがヒストリアは、ちょうど兵士の剣を受ける瞬間で、振り下ろされる剣に集中していた。
すると、次の瞬間、さらに強い衝撃が割って入った。
ガン、と鈍い音。
セオドールの剣が兵士の一撃を受け止め、同時に空いた左手がヒストリアの手首を制する。
「…っ…!」
ヒストリアが目を見開く。
兵士は青ざめて後ずさった。
「殿下!?」
「下がれ」
短い命令に、兵士は慌てて距離を取る。
ヒストリアは拘束された手首を振りほどいた。
「危ないじゃないですか!」
「それはこっちの台詞だ」
セオドールの声は、珍しく感情を帯びていた。
「なぜこんなことをしている」
「訓練です」
きっぱりと返す。
「兵士たちと朝の訓練をしていました」
「聞いていない」
「訓練場の使用許可をくださったのは殿下です」
静かな反論。
その様子に、周囲の兵士たちは、完全に息を止めている。
セオドールは眉を寄せた。
「おとなしく部屋にいろ」
ぴたり、と空気が止まる。
ヒストリアの瞳がわずかに揺れた。
「…それは、どういう意味ですか?」
「そのままだ」
「なぜ急にそんなことを言われるんですか?」
一歩踏み出すヒストリア。
「なぜ、って…、」
理由が、言葉にならない。
数秒の沈黙の後、セオドールは低く言う。
「…他に、何か俺に言うことがあるんじゃないのか」
ヒストリアは瞬きをする。
「……?」
本気で分かっていない顔だった。
その様子に、セオドールの表情がさらに険しくなる。
「…あるだろ」
「ありません」
間違いなく本心。
そして、ふと首を傾げる。
「もしかして、セオドール様も体を動かしたかったのですか?」
「…何?」
ヒストリアはくるりと剣を回し、構え直す。
「でしたら、お相手します」
その目は、完全に挑戦者のそれだ。
「やめろ」
「なぜです」
「今は、そんなことをしている場合では―――」
言い終わる前に、ヒストリアが踏み込む。
鋭い突きに、反射的にセオドールが受けた。
乾いた衝突音が響く。
今度は下段からの払い。
セオドールは受け流すが、足運びがわずかに遅れる。
ヒストリアはそれを見逃さなかった。
くるりと身を翻し、背後を取る。
「……!」
振り向いた瞬間、剣先が喉元で止まった。
静寂。
兵士たちが石像のように固まる。
ヒストリアの息は乱れていない。
「…私の勝ち、でしょうか」
あくまで冷静なヒストリアの声に、セオドールは数秒、何も言わなかった。
やがて「ああ」と、言って、あまりにもあっさりと負けを認める。
訓練場がざわついた。
あの大公殿下が、負けた。
「今日はこれで終わりだ」
低い声。
「まだやれます」
「だめだ」
「だって、本気じゃないじゃないですか!」
「だから何だ」
ヒストリアは不満げに眉を寄せる。
「納得がいきません」
「俺だって納得いかない」
ぽつりと零れた本音。
訓練場には重い沈黙が落ちていた。
兵士たちの心の声は一つ。
(殿下、どうなさったんだ…?)
そしてセオドールは、誰にも説明しないまま背を向ける。
お互い納得がいかないまま、ヒストリアは剣を取り上げられ、その日の稽古はそれで終わった。
*******
夜、正装に着替えさせられたヒストリアは、まだ少し機嫌が悪いまま食堂にいた。
長いテーブルに料理が並ぶ。
新鮮な魚のマリネに、ヒストリアがフォークを伸ばした瞬間。
「それはやめろ」
セオドールの言葉に、その場の空気が凍る。
「…え?」
「生の魚はよくない」
「どうしてですか?いつも食べてます」
「他の料理に変えろ」
厨房の担当がざわつく。
ヒストリアが今度はグラスに手を伸ばす。
「それもだめだ」
今度は明確に怒気を帯びていた。
「…セオドール様?」
「誰がワインなんか用意した。果実水を持ってこい」
「…以前ワインを飲んで倒れて以来、お酒の成分がほとんど入っていないものだと、セオドール様が用意してくださったものですよ?」
「ほとんどって、少しは入っているだろ」
「いつも飲んでます」
「今はダメだ」
侍女たちも青ざめ始める。
「部屋の温度も低い。担当は何をしている」
「一体どうしたんですか!」
ついにヒストリアも声を上げた。
「剣の稽古もダメ、部屋でおとなしくしていろなんて言うし、料理や飲み物にも文句ばかり。部屋だって寒くありません!」
セオドールは立ち上がる。
「体を冷やすなと言われただろう」
「…は?」
「刺激物も避けろと」
「何の話ですか?」
「…妊娠、しているんだろう?」
食堂中の時間が止まった。
ヒストリアは目を瞬かせる。
「…していませんが」
「嘘をつくな」
「ついていません」
「俺は庭園で聞いた」
ヒストリアは数秒、考えた。
そして、思わず吹き出す。
「…ふふッ…、…それ、猫の話です」
「…何?」
「城に迷い込んだ野良猫がいるんです。あの子、食欲がなくて。妊娠初期かもしれないとエマと話していました」
凍りつく空気。
セオドールの顔から血の気が引いた。
「…猫…だと?」
「はい、猫です」
耐えきれず、ヒストリアは笑い出す。
控えている側近のカイン、侍女、兵士、料理人たちは、必死に顔を伏せる。
セオドールはゆっくりとカインの方に振り返った。
「…猫が城に入り込むとはどういうことだ」
「は?」
「警備は何をしている」
「いや、猫くらい―――」
怒りの矛先が完全に変わった。
「対策を強化しろ」
そう言い残し、セオドールは去った。
*******
自室に戻ったセオドールは、椅子に腰掛けたまま窓の外を見ている。
表情は険しい。
そこへ、控えめに扉が叩かれた。
返事はしなかったが、中に入ってくる。
ヒストリアが静かに近づき、彼の背後に立った。
「セオドール様」
返事はない。
ヒストリアはそっと背中から腕を回した。
「…子供ができたかもしれないと聞いて、あそこまで気を遣ってくださるとは思いませんでした」
セオドールの肩が、わずかに動く。
「当たり前だろう?お前の体だぞ」
ヒストリアは頬を緩める。
「セオドール様」
「何だ」
「そんなに大切に思ってくださっているのですね」
「……」
少しだけ、気まずそうな沈黙。
ヒストリアはぎゅっと抱きついた。
「セオドール様、大好きです」
セオドールが深く息を吐いて、やがて彼の手がそっと彼女の腕に触れる。
「…人騒がせな猫だ」
「騒いだのはセオドール様だけです」
「明日、ちゃんと捕まえろ」
「どうなさるのですか?」
「…春とはいえ、夜は冷える。城の中に入れてやれ」
「はい」
セオドールの温かさに触れて、まだ存在しない未来を、ヒストリアは無意識に思い描いてしまう。
小さな手
青い瞳
可愛い笑い声
そんなものはまだどこにもない。
けれど腕の中のこの人は、その先にあるものもまた、守る覚悟をしてくれているのだ。
新しい命がこの城を駆け回るのは、もう少し、先のこと。




