11.青の晩餐
薄い光が差し込む部屋の中、暖炉の火が揺れている。
ヒストリアは鏡台の前に座り、黙って自分の髪を見つめていた。
背後では、侍女のエマが髪を梳いているが、その手は震えている。
「…ほ、本当に行かれるんですよね?」
「晩餐に呼ばれた以上、行ってくるわ」
「…ですが、さっきの広間でのこと…、殿下は…その、お怒りなのでは…?」
「そうかもね」
「…怖く、ないんですか?」
エマが、手を止めてヒストリアに問いかける。
鏡越しにも、その心配している表情がひしひしと伝わってきた。
「…怖くないわけではないけど、恐れて黙っているだけでは前にも後にも進めないから」
「…前にいらした花嫁様は…、殿下に“話しかけるな”と言われて、…それっきりでした。そのあと、気性が…さらに荒くなってしまわれて…」
―――そんなことでエマに火傷を負わせたっていうの?
ヒストリアは、エマの袖口に目をやった。
渡した香油の効果が出ているのか、前よりも傷が薄くなった気がする。
「大丈夫、私はエマに八つ当たりなんてしないから」
「そのようなことは心配していませんっ…」
「なら、今夜の様子を、無事エマに報告できるように努力してみる」
ヒストリアがにっこり笑うと、エマもつられて僅かに微笑んだ。
その顔には、躊躇と戸惑い、そして尊敬の色が混ざる。
そして、そっと息を吐き、意を決したように手を動かし始める。
「…では、少しでもお綺麗に見えるように、精一杯お手伝いさせていただきます」
「ありがとう、エマ」
その手はもう震えていなかった。
*******
大公城の食堂―――、
長い豪華なダイニングテーブルの端と端に座るセオドールとヒストリア。
会話はなく、広い空間にはナイフとフォークの音だけが響いていた。
ヒストリアは、薄いブルーのマーメイドドレスに身を包んでいる。
張り切ったエマによって結い上げられた白金色の長い髪には、ドレスに合わせた青い花が挿され、細かい水晶の飾りが散りばめられていた。
蝋燭の灯の中、まるで夜の星空を切り取ったかのように美しい。
沈黙を破ったのは、セオドールの低い声だった。
「口に合わないのか」
これは、ヒストリアを気遣ったものではない。
葡萄酒の事を言っているのは彼の手を見ればすぐにわかった。
血を連想させるほどの濃い赤が、グラスの中で回されている。
ヒストリアは、姿勢を正して穏やかに答える。
「いいえ。…あまり得意ではないだけです」
「それは妙だ―――、リヴィアナは無類の葡萄酒好きだと聞いているが」
…しまった。
その名が出た瞬間、ヒストリアの睫毛が僅かに揺れる。
目を伏せて次の言葉を考える。
本物のリヴィアナを見たのは過去に数回だけだ。
それも、騎士団として王宮の護衛にあたる時に遠くから見かけただけ。
酒の好みなど知らないし、少なくともフェルバールでの、あの短い教育の中ではそんなことは聞かされていない。
「…そうですね。飲み慣れたものなら。…申し訳ありませんが、この葡萄の香りが合わないようで―――」
セオドールの青い瞳がほんの一瞬、獲物を見つけたかのような鋭い光を帯びた。
「ならば、他の物を用意させよう」
給仕係の侍女が、新しい葡萄酒の瓶とグラスを持ってきた。
目の前で注がれているのは、先程のような深い赤ではないが、それでも重厚な色をした葡萄酒には変わらない。
ヒストリアの国では、公に酒を飲むことが許されているのは二十歳からだ。
十八歳のヒストリアは、騎士団の仲間との集まりで麦酒を少し飲んだことがある程度で、その時も決しておいしいとは思えなかった。
セオドールの視線を感じながら、そっとグラスに手を伸ばす。
香りだけで喉が焼けるようだ。
けれど、飲まなければ―――疑われる。
これが今できる、唯一の盾だ。
(…飲める。少しなら)
唇を湿らせる程度口に含むと、そっとグラスを置いた。
「これは、帝国で人気の葡萄酒だ。輸出もしているからフェルバールでもよく飲んでいたのでは?」
セオドールが自身の前に置かれたグラスを一気に煽る。
「…はい。…っ、…懐かしい味が、いたします」
「遠慮せずに飲むといい」
再びグラスを手に持ち、口に含むふりをしようとしたところで、セオドールの無言の注視に抗えずつい手元が狂った。
思ったよりも多くの液体が口の中に入る。
反射的に飲み込むと、強い葡萄酒が喉を灼き、胃に落ちた途端、世界が揺れた。
その様子に、カインがちらりと眉を上げる。
セオドールは黙したまま杯を傾けていて、
その無言の圧力がヒストリアをさらに追い詰めていた。
「…っ、」
グラスが卓に触れた音が、やけに大きく響いて、
それから、視界の端が白く霞む。
次の瞬間、
体が傾き、肩が誰かの腕に支えられた。
「姫さん…ッ―――」
そう叫んで、咄嗟に彼女の体を受け止めたのは、衛兵のノエルだった。
その腕は、驚くほどしっかりとヒストリアを支えている。
「だ、大丈夫ですか!?…顔色が…」
「ノエル、そのまま部屋へ運べ」
カインが指示を出すと 「はっ!」と、短く返事をしてヒストリアを抱き上げる。
腕の中の彼女が軽く、そして熱い。
ヒストリアがうっすらた瞼を開け、掠れた声で言った。
「…ごめ…な…さい…」
「…いいんです…、何も言わないでください」
ノエルの声が小さく震える。
セオドールの視線が、その背中を追っていた。
無表情だが、その奥には言葉にならない感情が一瞬だけ浮かんでいた。




