番外編・祭りの夜に
日が沈み、町の空気がゆっくりと夜へ溶けていく頃、豊作祭の広場の中央に灯りがともされた。
火の魔石を仕込んだランタンがいくつも吊るされ、橙色の光が人々の顔を柔らかく照らす。
昼間の喧騒とは違う、少し浮き立ったような、けれど穏やかなざわめきが満ちていた。
楽師たちが音を合わせると、低く、ゆったりとした旋律が流れ始める。
「…踊り、ですか」
ヒストリアは足を止め、小さく息をのんだ。
広場では、町の人々が自然と輪を作り、笑い合いながら踊り始めていた。
ぎこちない足取りの者もいれば、子どもを抱き上げて回る親の姿もある。
上手さなど誰も気にしていない。
ただ、祭の夜を分かち合うための踊りだった。
セオドールは、その様子を一瞬眺めてから、ヒストリアのほうへ向き直った。
「行ってみるか?」
そして、ためらいなく手を差し出す。
「…でも、私踊りは苦手で…」
「…俺も、それほど得意じゃない」
低い声だったが、どこか照れが滲んでいる。
ヒストリアはその手を見つめ、少しだけ迷ったあと、そっと指先を重ねた。
「…また、足を踏んでも怒らないでくださいね」
触れ合った瞬間、二人ともわずかに息を詰める。
指先から伝わる温度は、いつもと変わらないはずなのに、夜の灯りの中では、なぜか強く意識させられた。
音楽に合わせて、ゆっくりと足を動かす。
歩幅は合っていないし、動きも洗練されてはいない。
ヒストリアの足がわずかに遅れ、セオドールがそれに合わせる場面もあった。
それでも、互いに離れようとはしなかった。
周囲から、くすりとした笑い声が上がる。
「新婚さんかしら」
「かわいらしいわね」
そんな声と共に誰かが楽しそうに囃し立て、誰かが拍手を送る。
見知らぬ人々の温度が、二人を包み込んでいた。
「…皆さん、優しいですね」
「そうだな」
セオドールは短く答え、視線を外したまま、ヒストリアの手をしっかりと握っている。
踊りの輪の中で、灯りが揺れ、影が重なった。
その光景を見つめながら、ヒストリアはふと、胸の奥に浮かんだ感情を言葉にする。
「…こういう未来、想像していませんでした」
最初にこの国に来た時は、フェルバールに囚われ、ノルディアに送られ、恐れと不安ばかりを抱えていた頃。
こんなふうに、名も知らぬ町の人々に囲まれ、祭の夜に踊る自分の姿など、思い描いたこともなかった。
セオドールは、少しだけ間を置いてから答えた。
「俺もだ」
セオドールもまた、自身が持つ底知れぬ魔力を抑えながら生きてきた。
誰かと結婚するなど想像もしていなかったし、自分の命をかけても守りたい存在ができるとは思っていなかった。
視線が、ヒストリアへと戻る。
深青の瞳に映るのは、揺れる灯りと、今ここにいる彼女自身。
一瞬、言葉を探すように唇を閉じ、それから静かに続ける。
「こういうのも、悪くない」
舞踏会のような華やかな場ではない。
しかし、人々の温かさが心地よかった。
ヒストリアは、思わず微笑む。
「はい。私も、そう思います」
音楽が、ゆっくりと終わりに近づいていく。
踊りの輪がほどけ、人々が名残惜しそうに笑い合う中、二人はまだ手を繋いだまま立っていた。
夜風が、祭の熱をやさしく冷ます。
想像していなかった未来。
けれど、確かに今、ここにあるもの。
ヒストリアは、繋がれた手の温もりを感じながら、静かに思った。
この先も、この人とこうして一歩ずつ進んでいきたい。
灯りの下、不器用なまま並び立つ二人を、祭の夜はやさしく包み込んでいた。




