番外編・いつかの未来
大公国に、春が訪れていた。
北にある大公国では、一年を通して雪が降っているが、わずかな期間春がやってくる。
この時期、国民たちは春を祝い、豊作や繁栄を祈って祭りを催していた。
そんな春のある日、ノルディア城の庭には、一人の少年がいる。
年の頃は三つほど。
まだ言葉は拙く、けれど好奇心だけは人一倍だ。
小さな足で芝を踏み、立ち止まっては首を傾げる。
風に揺れる木の葉、石畳の縁に咲く花、水路を流れる水―――
目に入るものすべてが、珍しくて仕方がない。
「…あ、お花…」
少年は、小さな声を漏らした。
視線の先には淡く輝く氷花が、庭の一角に咲いている。
陽の光を受けてきらきらと光るその花に、少年はゆっくりと近づいた。
「きれい…」
目を輝かせ、指が伸ばす。
その瞬間、
「だめですよ」
後ろから、少年の身体がふわりと浮いた。
「このお花は、触っちゃだめ」
抱き上げたのはヒストリアだった。
少年は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「だーめ?」と、聞き直す。
「触ると壊れてしまうから、見るだけにしましょうね」
そう言って、ヒストリアは優しく微笑む。
「あっちのお庭には、噴水があります。お水が
いっぱい出てきてきれいですよ」
「…みず?」
少年は顔を上げ、ぱちぱちと瞬きをした。
「お水のとこ、行く!」
少年の言葉にヒストリアは思わず笑みを深める。
「はい。一緒に行きましょう」
彼女に抱かれたまま、少年は庭の景色をきょろきょろと見回していた。
ヒストリアの腕の中で、すっかり安心しきっている様子だ。
大きな噴水のある庭に着くと、少年の様子が一変する。
「わぁ…!」
水の音に目を輝かせ、ヒストリアの腕の中で身をよじった。
「降りる!」
「はい、でも走らないでくださいね」
地面に下ろされた途端、少年はぱたぱたと走り出した。
「…あ、待って!」
ヒストリアの声は届かず、少年は噴水の縁へ―――…
次の瞬間、足を滑らせ、身体が前のめりになる。
「あ…っ、」
その時、噴き上がっていた水が、音もなく凍りついた。
透明な氷が空中で形を保ち、少年の身体もまた、ふわりと止まる。
「…何をしている」
低い声が響く。
セオドールだった。
彼はかざした片手を上げたまま、少年を引き寄せる。
氷が砕け、水が地面に落ちた。
何事もなかったかのように、噴水が美しい弧を描いている。
「…危ないだろ」
そう言って、少年を高く持ち上げた。
ヒストリアが慌てて駆け寄る。
「セオドール様…っ、」
「庭にいたのか」
「はい、フェンリルのところに行った帰りです」
持ち上げられた少年はといえば、突然高くなった視界に、目を丸くしている。
一見、微笑ましい家族三人の姿だ。
しかし、セオドールの一言でその空気が変わる。
「…ところで、こいつは誰だ?」
その言葉に、少年は唇を震わせた。
「…うえ…ぇぇん…、怖い…っ」
泣き出しそうな顔を見て、セオドールは言葉を失う。
「それが、わからないんです。氷花庭園にいたのですが…」
「…どこかで見た顔だな」
セオドールがゆっくりと地面におろすと、少年はセオドールを避けるように走り、ヒストリアの足元にしがみついた。
「…だっこ」
「はい」
ヒストリアはすぐにしゃがみ、優しく少年を抱き上げる。
どうやら、少年はセオドールが怖かったようだ。
「怖くないから、大丈夫よ」
小さく頷き、彼女の肩に顔を埋める少年。
「迷子、ですかね?」
ヒストリアが不安そうに呟いた、その直後。
「―――殿下!」
切迫した声が庭に響いた。
ヒストリアが顔を上げると、息を切らしたカインがこちらへ駆け寄ってくる。
普段の冷静さはなく、珍しく焦りがはっきりと表情に出ていた。
「…あ、」
ヒストリアの腕の中の少年が、顔を上げる。
「…パパ」
たどたどしい声。
その一言で、すべてが繋がった。
「…すみませんっ!」
カインは深く頭を下げた。
「目を離した隙に、いなくなってしまって…、城の中にいるとは思っていたのですが…」
「…カイン様?」
ヒストリアは瞬きをする。
「はい…?」
ヒストリアは、腕の中の少年とカインを見比べる。
「…カイン様の、お子様ですか?」
「はい。私の息子です」
「…っ!?」
ヒストリアは、思わず声を上げた。
「カイン様、ご結婚…されてたんですか…?」
「…ええ、二十歳の時に」
ヒストリアは、少年を見る。
柔らかな灰白色の髪。
人懐こい琥珀色の目。
そして、どこかで見たような、面影。
言われてみればカインにそっくりだ。
少年は、カインの声に気付くと、ヒストリアの腕の中から身を乗り出した。
「パパ…!」
「おいで」
カインが両腕を広げると、少年はぎこちなく腕を伸ばす。
抱き取られた瞬間、安心したようにぎゅっとしがみついた。
「…ごめんな、怖かったな」
「…うん…」
「あの、おじちゃんが怖い…」
少年がセオドールの方を見た。
「…そうか。…まぁ、殿下の事は大抵みんな怖がるから大丈夫だ」
「…おい」
セオドールの眉間に皺が寄る。
ヒストリアはその様子をぽかんとしたまま見つめていた。
「…お騒がせして申し訳ありませんでした」
カインが頭を下げる。
「妻が今、帝国の実家に帰省しておりまして…、息子がどうしても留守番を嫌がって、城なら安全だと思い、乳母に預けていたのですが…」
「抜け出したのか」
セオドールが言う。
「…はい。申し訳ありませんでした」
セオドールは少年の前に屈み込む。
「似てるな」
「え?」
「お前の子供の頃と瓜二つだ」
懐かしそうに微笑む。
しかし、少年は警戒した顔でセオドールを見ていた。
「お前の名前は?」
視線に気づいたセオドールが問う。
「……」
「言えないのか?」
「…フィニ」
「フィニ…か。いい名前だ」
「……」
「……」
「…おじちゃんは?」
「セオドールだ」
「…せ…?」
舌がうまく回らず、少年は首を傾げる。
「…おじちゃん、ありがと」
ぽつり。
子供ながらに噴水で助けてもらったことがわかっているのだろうか。
セオドールは、一瞬だけ目を見開き、
「…ああ」
そう答えて、ふっと微笑った。
「部屋に帰るぞ、フィニアン」
「…うん!」
カインが息子を抱き直す。
去り際、少年はセオドールとヒストリアを振り返り、小さく手を振った。
「…おねえちゃん、またね!」
「はい、また遊びましょうね」
ヒストリアが手を振り返すと、少年は満足そうににこっと笑った。
二人の姿が庭の向こうに消えたあと。
「…俺はおじちゃんで、お前はおねえちゃんか」
「えっ…、」
(そこ、気にしてるの?)
「…カイン様が既婚だとは知りませんでした」
「そうだったか?」
「かわいかったですね」
「ああ」
ふと、ヒストリアがセオドールを見る。
「…どうした?」
「いえ…」
少しだけ視線を落とした。
「なんだ」
―――もし、
自分たちにも子供ができたら。
あんな風に、庭を走り回って。
危なっかしくて。
守ってあげたくて。
そして―――、
セオドールが優しく抱き上げていた。
「ああいう顔もされるんですね」
「…何の話だ」
「ふふっ」
ヒストリアは、照れたように笑った。
「なんでも、ありません」
セオドールは眉をひそめたが、追及はしなかった。
ただ、ヒストリアの手を取る。
「…戻るぞ」
「はい」
並んで歩きながら、ヒストリアの胸の奥には、温かい感情が広がっていた。
―――きっと、いつか。
そんな未来を、思い描きながら。




