104.エピローグ【本編完結】
その日の夜、ヒストリアは自室で、侍女のエマに寝支度を整えてもらっていた。
淡い色の寝巻きに袖を通し、丁寧に梳かされた白金色の髪が肩に落ちる。
「ヒストリア様が花嫁様としてこの大公国へ来てくださって、本当によかったです」
ふと、エマがぽつりと呟く。
鏡越しに見るその表情は笑顔だが、いつもより少しだけ感慨深そうだった。
「最初は戸惑っていた人たちも、今は違います。妃殿下になられてからはなおさらです」
ヒストリアは小さく息を吸い、ゆっくりと微笑んだ。
「私、エマが最初から優しくしてくれたから、ここまで来られたのよ」
「え?」
「前にも言ったけど、エマは何も聞かずに手を差し伸べてくれたでしょう」
エマは一瞬きょとんとし、それから慌てて首を振る。
「そ、そんな…、私は、当たり前のことを」
「当たり前じゃない」
ヒストリアははっきりと言った。
「人の優しさは、いつだって特別よ。これからも私の友人でいてね」
その言葉に、エマは目を潤ませながら深く一礼した。
「では、お休みなさいませ、ヒストリア様」
「おやすみなさい、エマ」
支度が終わり、エマが部屋から出ていった。
扉が静かに閉まって、部屋に一人になる。
しん、とした空気の中、ヒストリアは内扉の前に立った。
ほんの一瞬、心臓が早鐘を打つ。
次の瞬間、扉が開き、伸びてきた手に指を絡め取られた。
「…っ」
声を上げる間もなく、引き寄せられる。
セオドールだった。
そのまま強く抱き締められ、唇が重なる。
躊躇いも、探るような間もない。
熱を帯びた口付けに、ヒストリアは思わず息を詰めるが、拒むことはなかった。
彼の腕にしがみつくように指を掛ける。
しばらくして唇が離れると、ヒストリアの息は少し上がっていた。
「…っ…ん、」
足元がふらついて、力が抜ける。
「…ククッ…おい」
くすりと笑う気配とともに、セオドールが身体を支えた。
「…立っていられないのか?」
「…い、いえ…っ、」
言い訳を探す前に、抱き上げられる。
「…ほら」
寝台へと連れて行かれ、そっと下ろされる。
「ここなら、力を抜いてていい」
その声は、いつもの冷ややかさとは程遠く、穏やかで優しかった。
ヒストリアの呼吸が、少しずつ落ち着いていくのを、セオドールは確かめるように見下ろしていた。
寝台の縁に片膝をつき、彼はそっと彼女の頬に触れる。
「…怖くないか?」
低く、静かな声だった。
ヒストリアは一瞬だけ驚いたように瞬きをして、それから小さく首を振る。
「…平気、…です」
そう答えながらも、正直に言えば緊張はしていた。
胸の奥がきゅっと縮むような、名付けようのない不安。
セオドールは静かに彼女の手を取った。
「無理はさせない。…嫌なら、言え」
その言葉に、ヒストリアが微笑む。
「殿下が、そんなことを言うなんて」
「……」
「…初めて会った日の事を覚えてますか?」
「……?」
「…私が、飲めない葡萄酒を飲んで倒れてしまった日のことです。あの日も、こうして寝台で話しました」
「ああ、覚えてる」
「…あの時の殿下が忘れられません。“楽にしてやる”と。私は本当に死んだと思ったんですよ?」
ヒストリアは、思わず笑ってしまった。
「…その後、本当に何度か死にかけてる」
「それは…、まぁ…そうですね」
「…俺は、何度もお前を失うんじゃないかと思った」
「…ちゃんと、ここにいます」
セオドールはゆっくりと彼女の隣に腰を下ろすと、唇を軽く触れ合わせた。
それは最初よりも柔らかく、甘い口付け。
まるで、ここにいることを確かめるように。
呼吸が混ざり、同じ温度になっていく。
ヒストリアの力が抜けていくのを察したセオドールが、そっと彼女の身体を横たえる。
「…今日は、…このまま眠るか?」
声が、微かに震えている。
ヒストリアは、そっと彼の胸元に手を伸ばす。
以前なら躊躇したかもしれない。
けれど今は、自然にそうしていた。
そして、小さく首を横に振ると、すぐに唇が重なる。
セオドールのガウン越しに伝わってくる体温が、とても熱く感じた。
「…セオドール…さま…」
名前で呼ぶと、彼の指がわずかに強く絡む。
それだけで、互いの距離が一段近くなる気がした。
耳から首、肩にかけて唇が落とされ、ヒストリアの寝巻きに手がかかる。
「…あの…っ、明かりが…」
部屋には、いくつものランプがついたままだった。
ヒストリアがそう言うと、セオドールが彼女を見つめたまま軽く手を持ち上げる。
「…面倒だ」
その瞬間、手が淡く光り、部屋中の明かりが全て消えた。
「…ッ、」
セオドールの魔法だ。
「…ヒストリア」
名前を呼ばれるたびに、胸が甘く疼く。
しばらく、何も言葉を交わさず、互いの存在を感じる時間が続く。
「…愛している」
不意に、セオドールが言った。
囁くような声。
けれど、逃げ場のないほど真剣な響き。
「…私も、愛してます…、セオドール様」
そう答えて、ヒストリアは微笑む。
外では風が城壁を撫で、遠くでフェンリルの遠吠えが聞こえた。
それでも、この一角だけは、静かで、穏やかだった。
ヒストリアは目を閉じ、彼の胸に顔を埋めた。
その鼓動を聞きながら思う。
――この人の隣で、生きていくのだと。
二人の呼吸は同じ速さになり、夜は静かに、深まっていった。
この城で出会い、同じ温度で、同じ場所に辿り着いた二人。
氷の暴君と、囚われた姫の姿は、もうどこにもなかった。
今ここにいるのは、
互いを選び、互いに帰る場所となった、夫婦だけだった。
【氷の暴君と囚われの姫・完】




