103.氷の暴君と囚われの姫
セオドール、カイン、そしてヒストリアの三人がノルディア城に戻った日の午後、ヒストリアはいつものように城内を歩いていた。
城では、まるで何事もなかったかのようにすっかり日常を取り戻している。
「…妃殿下」
ふいに、背後から、やや硬い声で呼び止められた。
振り返ると、そこにいたのは見覚えのある重臣が立っている。
以前に、夫婦の寝室が別なのは掟に反すると言ってヒストリアを追い詰めた男だった。
ヒストリアは一瞬、身構えたが、男はその場で深く頭を下げる。
「…このたびは、殿下のお命を救ってくださり、誠にありがとうございました」
その言葉に、思わず瞬きをした。
「…私が、ですか?」
「はい」
顔を上げた重臣の表情は、以前のような圧ではなく、どこか居心地の悪そうな真剣さを帯びていた。
「北の地での件は、すでに報告を受けております。呪いの解呪に、妃殿下が関わられたことも…」
城内では、噂はもう隠しきれないほど広がっていたのだ。
大公が呪いで暴走しかけたこと。
北方で拘束されていたこと。
それを救ったのが、大公妃殿下であったこと。
「…そして、以前、私は無礼なことを申し上げました」
男は、言葉を選ぶように続ける。
「正直に申し上げれば、妃殿下が殿下の隣にお立ちになることを、…浅はかな私はよく思っておりませんでした」
ヒストリアは何も言わず、静かに聞いていた。
「ですが、」
重臣は、はっきりとした声で言う。
「殿下が最も危うい時に、妃殿下は逃げ出さず、命懸けでお救いくださいました。それだけで、十分でございます」
深く、もう一度頭が下げられる。
「これまでの無礼、偏見に満ちた言動については、弁解の余地もございません。どうぞ、厳格な処罰をお与えください」
その言葉を受け止めた瞬間、ヒストリアの胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。
「…ありがとうございます」
静かに、しかしはっきりと答える。
「殿下のことを思ってのご助言だったのだと、私は理解しています。ですから、私は気にしません」
重臣が、わずかに顔を上げる。
「これからも、殿下と大公国のために、お力をお貸しください。どうか、よろしくお願いします」
その声には、もう怯えも、遠慮もなかった。
以前のヒストリアなら、こんなふうに言えなかっただろう。
相手の言葉に、傷つかないよう身構えていたはずだ。
けれど今は違う。
この数ヶ月で、彼女自身が確かに変わったのだ。
重臣は深く一礼し、その場を去っていった。
少し離れた場所で、その一部始終を見ていたセオドールは、ヒストリアの横に並ぶと、低く呟いた。
「…俺の妻は、随分と寛大だ」
「そうでしょうか?」
ヒストリアは首を傾げ、少し考えてから微笑んだ。
「城の中は、変わり身が早いやつばかりだな」
「でも、それは殿下のことを真剣に考えてくださっているからで―――…」
「…何?」
不意に、セオドールの声が割り込んだ。
「……?」
遮られた理由がわからず、ヒストリアはきょとんとする。
「今、何と言った?」
「ですから、殿下のことを―――」
「約束はどうした」
「…約束?」
怪訝そうに聞き返すと、セオドールはじっと彼女を見下ろす。
「名前で呼ぶと言っただろう」
「…あ…」
思い出して、視線を逸らす。
「俺は嘘が嫌いだ」
「べ、別に嘘では…っ、」
「なら、呼べ」
「…だって、殿下は私が名前を呼ぶと照れるじゃないですか」
「誰がだ。照れてない」
「照れてます。いつも」
「…照れてない。いいから、早くしろ」
半ば強引に促され、ヒストリアは一度、小さく息を吸った。
「…セオドール…様」
そっと見上げる。
その瞬間、セオドールの耳が、わかりやすく赤く染まった。
「……」
「…やっぱり照れてるじゃないですか」
「…黙れ、減らず口」
言葉とは裏腹に、伸ばされた手は優しく、ヒストリアの肩を引き寄せる。
その距離の近さに、ヒストリアの心臓が小さく跳ねた。
変わったのは、彼女だけではない。
互いに傷つき、すれ違い、それでも支え続けた結果が、今ここにある。




