102.収束の時
数日後、北部の森と境界は、ようやく本来の静けさを取り戻していた。
氷が暴れ、火が焼き止めた痕跡はまだ残っているものの、空気は澄み、魔力の歪みも感じられない。
森の奥の小屋の中、簡素な寝台にセオドールは腰掛けていた。
もう鎖はつけておらず、あれ以来、氷の魔力は落ち着いている。
その前に立つのは、大神官ルーカス。
片手に長い杖を持ち、もう一方の手をセオドールの胸元にかざしている。
「……」
しばらくの沈黙。
カインは息を詰め、マックスは壁にもたれたまま黙って様子を見ていた。
ヒストリアは少し離れた場所で、心配そうに見守っている。
やがて、ルーカスが手を下ろした。
「…消えてるな」
その一言に、空気がふっと緩む。
「呪いの残滓も、精神侵食の痕もない。きれいさっぱりだ」
「…本当ですか?」
カインが思わず声を上げた。
「疑うなら自分で診ろ。俺の目が節穴だったら、神殿はとっくに潰れてる」
ルーカスが、ふん、と、鼻で笑う。
「ですが、呪いが消えるとは…」
「そのためにヒストリアに神力を注ぎ込んでおいたんだ。…まぁ、賭けではあったが…」
ルーカスは、ヒストリアの方を見た。
「…どういうことですか?」
視線に気づいて、ヒストリアが問う。
「これは、魔力と神力の性質の違いだ。魔力は押さえ込み、それだけ増幅しやすいが、神力は委ね、鎮めるものだ。ヒストリアに呪いを浄化するだけの神力はないが、俺の神力が媒介になり、ヒストリアがこいつの精神に入ることで外との繋がりができた」
(…リュカ様の話が、さっぱりわからない…)
ヒストリアは、そのまま話を聞く。
「あの呪いは、精神を孤立させ、感情を溢れさせ、それを餌として魔力を制御不能にするものだった。外と繋がったことで、術が成立しなくなったんだろう」
セオドールは、静かに息を吐く。
彼のほっとしたような姿に、ヒストリアもようやく安心できた。
その様子を横目で見ながら、ルーカスがわざとらしく咳払いをした。
「まったく…、」
そして、セオドールを値踏みするように眺める。
「幼い頃から莫大な魔力を持ってたくせに、よくもまあ、ここまで拗らせたもんだ」
「……」
「言っておくが、俺も似たような境遇だった」
セオドールがわずかに眉を動かす。
「人並み外れた神力を持っていたからな。周りには気味悪がられて、利用されて、押し付けられて。それでも俺は壊れてない」
ルーカスは、にやりと笑った。
「要するに、俺とお前は格が違うってことだ」
ヒストリアが思わずため息をこぼす。
「リュカ様…」
「いいんだよ、事実だからこれくらい言ってやったほうが」
ばっさり切り捨ててから、ルーカスはセオドールに向き直って、指を一本立てる。
「お前は、意外と真面目なんだな。押さえ込みすぎた」
セオドールは、反論することもなく静かに視線を落とした。
「“感情を切り離せ、制御しろ”そう教えられて育ったようだが…、」
ルーカスは肩をすくめる。
「それはな、壊れないための方法じゃない。そんなやり方じゃ、どうせいつかはこうなっていただろう」
一瞬、セオドールの表情が揺れた。
「…では、どうすればいい」
問いは低く、真剣だった。
ルーカスは少しだけ、声の調子を落とす。
「完全に制御しようとするな。溢れるのが当たり前なんだ。その前提で、うまく外へ逃がせ」
視線が、自然とヒストリアへ向かう。
「今回みたいなことにならないようにな」
ヒストリアが小さく息を呑む。
ルーカスは、わざと意地の悪い笑みを浮かべる。
「次に暴走した時は、俺が直々に縛ってやる」
マックスが吹き出した。
「それは見てみたいな」
「黙れ火トカゲ。貴様、さっき聞いたが、以前孫に求婚したそうだな」
「えっ、」
「孫に指一本でも触れてみろ、その舌と指を残らず切り落としてやる」
マックスが、唖然としている。
一蹴してから、ルーカスはヒストリアに向き直った。
「…お前は、本当によくやったな」
それは、優しい声だった。
ヒストリアは少し照れたように、でもまっすぐ答える。
「リュカ様のおかげです」
ルーカスは一瞬、目を細める。
「…本当に、ろくでもない男を選んだな」
そう言いながら、ヒストリアの頭にぽん、と手を置く。
「…あの、」
「なんだ?」
「…え…っと、」
ヒストリアの歯切れが悪い。
「どうした?」
ルーカスが不思議そうに顔を覗き込む。
「…リュカ様、少しだけお耳を貸していただけないでしょうか」
「……?」
言われた通り、ルーカスが耳を差し出すと、
「…―――……」
ヒストリアが何かを耳打ちし、
次の瞬間、
「……!!」
ルーカスが目を見開いて驚く。
「…ま、まあ、お前が選んだ男なら、仕方ないから面倒をみてやる。何かあったらいつでも呼べ」
そして、セオドールを見る。
「覚えとけ。お前は独りで耐えられる男じゃないんだよ。クソガキのくせにそんな器があるわけないだろう?耐えさせられてきただけだ。今度ヒストリアが死にかけたら、俺がお前を殺す」
ルーカスは背を向け、外へ歩き出した。
「さて、俺は帰る。あとは夫婦で勝手にやれ」
ヒストリアが慌てて後を追う前に、セオドールが小さく声をかけた。
「…何を言ったんだ?」
「…内緒です」
「……?」
今度は、セオドールがルーカスの後を追った。
「…大神官様、ありがとうございました」
立ち止まらずに、ルーカスは答える。
「礼なら大公国にたっぷり請求するから安心しろ」
ちらりとだけ振り返ったその顔は、なぜか気味が悪いほど満面の笑みだった。
その場にいた誰もが、ルーカスの笑顔を訝しげな顔で見ている中、ヒストリアだけが微笑んでいた。
先程、耳打ちした言葉が、心の中でもう一度繰り返される。
“ありがとうございました、おじいさま”
それは、ようやく伝えることができた、感謝の言葉だった。




