100.呪い
ヒストリアが、そっと手を伸ばした。
小屋の中、鎖に繋がれたセオドールの手は、驚くほど冷たかった。
皮膚を通して伝わる感触が、生きているのか心配になるほどだった。
(…殿下…、今行きます)
(…ヒストリア…)
かすれた声が聞こえた気がした。
その瞬間、世界が反転する。
*******
気づくと、ヒストリアは風の中に立っていた。
視界いっぱいに広がるのは、蒼白な空。
足元には、古びた石段。
その先に、小さな祠がぽつんと建っている。
この場所には見覚えがあった。
帝都を見下ろす、高台の祠。
かつてセオドールが、何もかもが嫌になった時に一人で訪れていたと言っていた場所だ。
ここに来ると、自分が自分でいられる、そう言っていた。
祠の中には小さな影がある。
膝を抱え、うずくまっている、五、六歳ほどの少年だ。
銀色の髪。
長い睫毛が伏せられた青い瞳。
幼い頃の、セオドールだとすぐにわかった。
「…殿下」
呼びかけると、少年はびくりと肩を震わせた。
ゆっくり顔を上げ、怯えたようにこちらを見る。
「…誰?」
声は細く、震えている。
ヒストリアは、思わず胸が締め付けられた。
(そうだ、この頃の殿下は…)
お母上が亡くなり、誰も信じられず、信じることをやめて、自分の殻に閉じこもっていた頃だ。
ヒストリアは、ゆっくりと距離を縮める。
「私はヒストリアといいます。…あなたの、妻です」
少年は、きょとんと目を瞬かせた。
「…つま?」
理解できない言葉を聞いたような顔。
「…僕の、はなよめさまってこと?」
「はい」
「…嘘だ。僕のはなよめは“セレナ”だと、宰相が言ってた」
「嘘じゃありません」
ヒストリアは微笑んだ。
けれど、同時に涙が滲むのを止められなかった。
「あなたは、これからたくさんのものを背負います。怖くて、苦しくて、誰にも頼れなくなるかもしれません」
少年は、ぎゅっと膝を抱える。
「…いやだ…ッ」
「…はい…、嫌ですよね」
「みんな、僕を怖いっていうんだ…」
小さな声が、風に溶ける。
「魔法がおかしいって…。僕がいると…、みんな、嫌な顔をする」
ヒストリアは、その場に膝をついた。
セオドールと目線を合わせる。
「いいえ」
そっと、少年の冷たい手を包む。
「…あなたは、優しい方です。あなたにお仕えしている方々にも、気遣いしているのを私は知ってます」
暴君と呼ばれてはいるが、彼は理由なく暴力を振るうわけではない。
使用人たちへも、にこやかに接するわけではないが、彼なりの優しさが見えることが何度もあった。
「殿下は、私の事もいつも守ってくださっています」
少年の瞳が、揺れる。
「…ほんと?」
「はい、本当です」
ヒストリアは、はっきりと言った。
「…ずっと、誰かを傷つけないために、我慢して、自分を縛ってたんですね」
少年の唇が、震える。
「…僕、怖いんだ」
「何がですか?」
「…僕が、僕じゃなくなること」
その言葉に、ヒストリアの胸が痛んだ。
「誰も僕を見てない…。父上のような皇帝になるのか、それ以外か選べって…」
小さなセオドールの苦しみが、痛いほどヒストリアに伝わってくる。
「僕は、周りの子と同じようにしたいだけなんだ。一人は寂しい…。でも、僕が何かすると、誰かを傷つけちゃう…」
「…そんなこと、決してありません」
幼いセオドールが、顔を上げて初めてこちらを見た。
その瞳は、氷のように澄んでいて、そして、怖いほど孤独だった。
「…誰かが壊れてしまうなら、僕が壊れた方がましだ」
(呪いは、ここにつけ込んでいる)
制御を奪う呪い。
まるで、壊れてもいい、と囁き続ける呪術。
ヒストリアは、少年の手を強く握った。
「大丈夫です」
「……?」
「私は簡単には壊れません。私、強いんですよ?…それに、寂しいなら私が呼びます」
少年は、目を見開いた。
「…呼ぶ、って?」
「はい」
ヒストリアは、泣きそうな笑顔で言った。
「あなたのお名前を。あなたが、寂しくないように、安心できるまで何度でも呼びます。そうすれば一緒にいるってわかるでしょう?」
祠の周囲で、氷がひび割れる音がした。
凍りついた世界に、微かな温もりが灯る。
少年は、戸惑いながらも、ヒストリアの手を握り返す。
「…ほんとに?」
「はい」
「…いなくならない?」
「絶対に離れません」
その瞬間、祠の奥で、何かが悲鳴をあげた。
呪いが、気づいたのだ。
核心に“触れられた”ことに。
ヒストリアは、少年を抱き寄せる。
「だから、」
耳元で、静かに囁いた。
「一緒に、戻りましょう。今のセオドール様のところへ」
少年は、小さく頷いた。
その時だった。
ひゅ、と。
世界の温度が、唐突に下がる。
ヒストリアの足元から、音もなく氷が這い出してきた。
古い祠の石畳が、白く、脆く、歪みながら凍りついていく。
「…っ、」
息が詰まる。
胸の奥を、冷たい指で掴まれたような感覚。
(なに、これ……?)
空気が重く、硬くなる。
視界の端が、ゆっくりと白く侵食されていく。
―――違う。
これは、セオドールの氷ではない。
ヒストリアは、本能的に理解した。
(…これこそが、呪いそのものなのかもしれない)
祠の影が、不自然に揺らいだ。
氷の結晶が集まり、形を成し、声にならない声が響く。
『…返さない…』
低く、粘つくような圧。
直接耳に届くわけではないのに、頭の内側に叩きつけられるような声。
「……!」
ヒストリアの膝が、がくりと落ちる。
冷たい。
息を吸うたび、肺の奥が凍りつくようだ。
それでも、目を逸らさなかった。
冷たい空気の向こう側、膝を抱えたままの幼いセオドールが、怯えたようにこちらを見ている。
(この子を、…殿下を、また一人にして閉じ込めようとしてる…)
ヒストリアは、震える指を握りしめた。
「…だめ、」
声は小さかったが、確かだった。
しかし、一歩、踏み出そうとしたところで、足首まで氷に縫い止められる。
激痛が走った。
凍傷のような痛みが、神経を噛み砕く。
「…ッ、く…」
意識が、遠のきかける。
(ここで離れたら、殿下が…ッ…)
視界が暗くなる中で、ヒストリアは必死に前を見た。
幼いセオドールが、泣きそうな顔でこちらを見ている。
「…セオドール様…、一緒に…帰りましょう」
必死に手を伸ばす。
呪いが、怒りに満ちた波動を放つ。
『黙れ!』
氷の嵐が、ヒストリアを包み込んだ。
世界が、白に沈む。
——意識が、ほどけていく。
(…セオドール…様…)
最後に思い浮かんだのは、北方の森の小屋で、鎖に縛られながらも必死に耐えていたセオドールの姿。
「…あなたが怖いなら、私が守ります。あなたが、壊れるって言うなら二人で一緒に治しましょう…。だから―――、」
掠れた声が、氷の嵐を貫いた。
「…だから、戻って!!!」
ヒストリアが叫んだその瞬間、膝を抱えたセオドールが、はっと顔を上げた。
「…行くな!」
叫ぶように、立ち上がる。
「一緒にいるって、言っただろ!!」
その声が、呪いの核心を撃ち抜いた。
切り離してきたはずの、感情と叫びが再び重なる。
祠の氷に亀裂が走り、白い粉雪となって舞い落ちる。
ヒストリアの身体が、崩れ落ちる寸前。
その手を必死に掴んだのは、長身に深青の瞳の、セオドール・ヴァル=ノルディアだった。
「…もう、絶対に離さない」
大きな手は、冷たさなど微塵も感じさせなかった。
呪いが、悲鳴をあげる。
『…ぁあ…あアアァ……』
声が、弱く、歪んでいく。
ヒストリアの意識は、暗闇に沈みながらも、確かにセオドールの手の温もりを感じていた。




