99.鎖
北方へ向かう移動魔方陣が解かれた瞬間、空気が変わった。
冷たい―――
しかし、ノルディア城とは違う。
頬を刺すような冷気の奥に、獣の息遣いと、大地そのものが生きている感覚があった。
「…ここが北の地…」
ヒストリアは外套の襟元を掴み、足元に広がる白い大地を見渡した。
「魔獣の森と、人の領域のちょうど狭間の地か」
隣でルーカスが呟く。
相変わらず軽装で、寒さを感じている様子もない。
ヒストリアはその言葉に、ぎゅっと唇を噛んだ。
遠くで、何かが低く吠える声が聞こえた。
フェンリルとは違う、もっと荒く、低い声。
「…怖くないか」
不意に、ルーカスが横目でヒストリアを見る。
「怖いです」
即答だった。
ルーカスは一瞬だけ目を細め、すぐにいつもの皮肉げな笑みを浮かべた。
「合格だ。恐怖を知らない人間は、自分も他人も守ることができないからな」
二人の前に、数人の男たちが姿を現す。
毛皮と革で身を固めた、北方の部族の者たちだ。
その中央に立つ人物が、ヒストリアを見て、目を見開いた。
「…まさか、本当に来たんですか」
カインだった。
やつれた様子はないが、明らかに疲労が滲んでいる。
目の下に落ちた影が、この地に来てからの張り詰めた状況を物語っていた。
「カイン様…、殿下は…」
ヒストリアが駆け寄ろうとすると、カインは慌てて制した。
「今は…、近づかない方がよいかと」
その言葉に、胸が締めつけられる。
ヒストリアが無言で首を横に振ると、カインは一瞬、視線を伏せ、それからゆっくりと北の森を指した。
「…奥に、います」
森は、静かすぎるほど静かだった。
鳥の声も、風の音も、どこか押し殺されたように遠い。
「…森の奥に、小屋を作りました。マックスの火炎魔法が殿下の症状を抑えるのに効果があって、それを織り込んで、魔方陣として機能させています」
淡々と説明しながらも、カインの声は硬い。
小屋の前に立った瞬間、ヒストリアは息をのんだ。
森の奥深く、雪と氷に覆われたその場所だけ、空気が異様に張りつめている。
冷たいはずなのに、どこか焼け焦げたような匂いが混じっていた。
マックスの火炎魔法と、セオドールの氷がせめぎ合い続けてきた痕だ。
「…こちらです」
カインの声が、いつもより低い。
小屋は小さい。
だが、壁一面に刻まれた魔方陣と、柱に埋め込まれた赤黒い魔石が、ここがただの隔離小屋ではないことを物語っていた。
魔力を抑え、逃がし、分散するための檻。
ヒストリアは、無意識に拳を握りしめていた。
「入る前に、」
ルーカスが、静かに言った。
彼はヒストリアの前に立ち、ためらいなく彼女の額に手を置く。
次の瞬間、ぬくもりとも重みともつかない感覚が、体の奥に流れ込んできた。
「…っ…、」
息を詰めるヒストリアに、ルーカスは低く告げる。
「神力だ。完全な守りにはならないが、何もないよりはましだ。気分が悪くなったら、すぐ言え」
「…はい」
震えながらも、ヒストリアは頷いた。
ルーカスは一歩下がり、扉の前に立つカインに視線を向ける。
「開けろ」
きし、と重い音を立てて扉が開いた。
冷気が、噴き出した。
小屋の中は薄暗く、床には氷が張りつき、壁には霜が花のように広がっている。
その中心に、鎖に縛られた男がいた。
「……!」
ヒストリアは、声を失った。
セオドールは座り込むような姿勢で、両腕を太い鎖で拘束されていた。
鎖は床と壁の魔方陣に繋がれ、彼自身の魔力を吸い上げ、逃がす構造になっている。
――自分で、縛った。
それが一目でわかった。
鎖はは乱れておらず軽く巻き付いているだけで、無駄な抵抗の跡もない。
むしろ、セオドールが鎖を掴んでいるような状態だった。
「…殿下…っ…」
思わず、名前を呼んでから、ヒストリアは喉を詰まらせた。
セオドールの目は、かつての鋭さを失っていた。
焦点が合っていないわけではない。
ただ、生気が失われている。
「…ヒス…ト…リア…?」
セオドールの冷えた視線が、わずかに彼女を捉えた。
「…出ていけ」
掠れた声。
「ここは…、危…ない…」
それでも、ヒストリアの足は止まらなかった。
一歩、また一歩。
床の氷が、ヒストリアの足元にまで広がる。
「殿下、遅いから迎えに来ましたよ」
ヒストリアは、はっきりと言った。
その瞬間、セオドールの周囲の氷が、ざわりと揺れた。
「…出ていけと言っている…!」
苦しそうな、低く、荒い声。
怒鳴った拍子に、鎖が鳴り、魔方陣が一瞬だけ強く光った。
「…傷つけたくない」
「大丈夫です」
ヒストリアは、もう一歩踏み出した。
ルーカスが背後で息を詰めたのが、わかった。
「私は…、」
言葉を選ぶ暇はなかった。
「傷つきません。殿下が攻撃しても避けるから大丈夫です」
「…一度も、…勝てて…ないくせに」
セオドールがふっと笑う。
「はい。だから早く帰ってまた勝負しましょう?今度は私が一本取ります」
一瞬、セオドールの表情が、強張った。
怒りとも、恐怖とも、拒絶ともつかない感情が、氷の下から滲み出る。
「…もう、いい」
「…よくありません!」
遮るように、ヒストリアは言った。
「前に私が怖いものを聞いたら、自分だと言ってましたよね?」
その言葉に、セオドールの指先が、わずかに震えた。
沈黙が落ちる。
小屋の外で、カインが歯を食いしばる気配がした。
ヒストリアは、ゆっくりと息を吸い、セオドールの前に膝をついた。
鎖の届く、ぎりぎりの距離。
「だから、自分で縛ったんですか?」
その声は、責めるものではなかった。
ヒストリアは、自分の胸に手を当てる。
「…リュカ様も、力を貸してくださいました。だから大丈夫です」
凍りついた空気の中で、二人の視線が重なる。
そこにあったのは、暴君でも、大公でもない。
必死に、壊れないよう踏みとどまってきた、一人の男だった。
ルーカスは、小さく息を吐いた。
「…精神を侵す呪いだ。あまり時間がないから始めるぞ」
その声とともに、小屋の魔方陣が、静かに光を強めていった。




