95.拘束
氷は、地鳴りのように音を立てて広がっていた。
地表を覆う霜が、意思を持った生き物のように這い、空気そのものを噛み砕いていく。
呼吸をするたび、肺の奥が軋むほど冷え切っていた。
「…まずい…な…、」
カインは歯を食いしばり、両腕を広げて結界を張る。
風の魔力で周囲の空気を押し戻し、氷の侵食を食い止めようとするが、結界は軋み、悲鳴を上げていた。
「殿下!!!」
呼びかけた先に、セオドールは立っていた。
いや、立たされていると言ったほうが正しい。
足元から立ち上る氷の魔力が、彼の意思とは無関係に溢れ出し、周囲を凍結させていく。
「…逃げろ」
低い声は、いつもと変わらないはずだった。
だが、その言葉にはいつもの強さや、カインが知っている彼独特の泰然自若さがない。
「…大丈夫だ、何とかす―――…」
言い終わるより早く、氷が爆発的に広がる。
カインの結界も限界を迎え、砕け散る寸前、
―――熱風が、吹き荒れた。
一瞬、カインは錯覚かと思うほど唐突に、冷気が裂かれる。
燃えるような空気が氷を押し返し、地表を赤く包む。
「……っ!」
カインが目を見開く。
炎だ。
だが、荒々しい破壊ではない。狙い澄ました火が、氷の進行線だけを追うように焼き止めている。
「…こりゃ、ひでぇな」
低く、呆れたような声。
雪煙の向こうから、毛皮の外套を翻し、一人の男が姿を現した。
「…マックス…?」
「…辺境で溶け落ちた氷を、あいつが修復に来てると聞いて様子を見に来たんだ。北方の森は近いからな」
マックスは一歩踏み出す。
「しかし、こんなことになってるとは…」
氷の圧に怯むことなく、真っ直ぐに視線を返した。
「…あれはひとりで抱えられる類じゃねぇ」
炎が再び揺らぎ、氷と拮抗する。
完全に止めることはできない。
だが、なんとか相殺はできる。
マックスは一目で理解していた。
これは、単なる魔力の暴走ではない。
セオドールの意識すら削ぎ落とされている。
横にいるカインが移動魔方陣を描き始めたのを見て、マックスが制止する。
「…やめろ。このまま城に戻したらどうなるか、分かるか?」
カインが手を止めると、マックスは続ける。
「国ごと凍るぞ」
恐ろしい断言だった。
「…行き先の座標は俺が指定する。お前は補助しろ」
「…どこに行くつもりだ?」
カインが問う。
「…俺の住む北方の森だ。行っておくが拒否権はねぇぞ」
マックスは即座に切り返す。
次の瞬間、押さえていた氷が暴れ出した。
感情と魔力が絡まり、セオドールの理性を引き剥がそうとする。
「殿下!!」
カインが駆け寄るが、圧が強くて近づけない。
「転移する!」
マックスの炎が、紋様を描くように地面を焼く。
三人を取り囲むように。
同時に、カインが補助魔法を展開した。
強制転移―――。
セオドールの意識は、半ば闇に沈みかけていた。
「…やめろ…ッ、」
荒れた声が、氷混じりに響く。
その言葉は、誰かを拒むというより、自分自身を恐れているようだった。
そして、次に視界が戻ったとき、三人は永久凍土の氷が崖のように切り立つ場所にいた。
巨大な魔法陣と、鈍い光を放つ鎖が地面に埋め込まれている。
「…ッ、すげぇ力だな…!押さえるのがやっとだ…」
しかし、マックスは躊躇しなかった。
「カイン、あそこの鎖でセオドールを縛れ」
本来ならそんな命令には従えないが、今、この場でセオドールを押さえられるのはこの男しかいない。
黙って従った。
魔方陣の中心に埋め込まれている鎖を引っ張り、セオドールの体に巻き付ける。
「…放せ…ッ!!」
セオドールが吠える。
氷が荒れ狂い、地を裂いた。
だが、マックスは踏み込む。
「暴走を止めるためだ」
鎖が、セオドールの身体を絡め取る。
拘束が終わり、魔方陣が起動すると、暴れていた魔力が収束していった。
「…マックス、これは何の魔法なんだ」
カインが慎重に聞く。
「…本来なら魔獣を拘束するための陣だ。魔力を吸って分散させる」
セオドールが抵抗し、鎖が締まるたび、溢れ出す魔力が削がれていく。
「…殿下は、大丈夫…、なのか?」
「…人間をあそこに縛ったことはねぇが、…まぁ、大丈夫だろ」
「……」
「これは、お前を殺すわけじゃない。生かすための鎖だ」
マックスの言葉に、セオドールは声を出すこともできず、ただ荒い息を吐いた。
完全に制御を失った状態で、拘束されている。




