94.咆哮
セオドールの足元で、氷が静かに軋んだ。
いや、軋んでいるのは氷だけではない。
大地そのものが、何かに怯えるように、低く唸っていた。
一時的に、確かに落ち着いたように見えた。
溢れかけていた魔力は、呼吸とともに押し戻され、氷嵐も止んでいる。
だが、それは治まったのではなく、押さえつけているに過ぎなかった。
セオドールは深く息を吸い、周囲を見渡す。
呪術師たちが溶け落ちた場所には、黒く濁った痕跡だけが残り、呪符も魔具も見当たらない。
「…何もない、か」
低く呟く声は、いつもと変わらない。
それが、余計に不安を煽った。
「殿下」
隣に立つカインが、周囲を警戒しながら言う。
「呪いを解く手がかりは、見当たりません。この場は危険です。すぐ帰還を―――」
「先に偵察に出た者たちがまだ見つかってない」
セオドールは遮るように言った。
カインの表情が強張る。
「…ですが、今の殿下の状態でこれ以上ここにいるのは…」
「この土地の修復もまだだ」
迷いのない言葉だった。
「お前は偵察隊を探せ」
「殿下!!」
珍しく、カインの声が荒くなる。
「今、魔力を使うのは危険です。呪術師の言葉を忘れたんですか?制御を奪う呪いだと」
セオドールは一瞬だけ目を伏せ、それから、静かに言った。
「…幼い頃にも、似たことはあった。お前も見たことがあるだろ」
カインは息を呑む。
「魔力が制御不能になりかけたが、その時は、持ち直した」
「ですが今は、その頃とは魔力量が違います」
セオドールは自嘲気味に口の端を上げた。
「分かってる」
その青い瞳が、氷の大地を見据える。
「それでも、部下を置いて帰ることはできない」
氷に覆われた荒野の向こう。
偵察隊が消息を絶ったままのこの場所を、まっすぐに見る。
「俺には、仕えている者を見捨てる選択肢はない」
「…殿下」
「俺が制御できているうちに、早く行け」
語尾に、僅かな苛立ちが滲んだ。
カインは唇を噛みしめ、数秒だけ逡巡する。
やがて、深く頭を下げた。
「…必ず見つけて戻ります」
そして、言葉を選ぶように、付け加える。
「…無理だけは、しないでください」
セオドールは何も答えなかった。
カインがその場を離れ、魔法で地を滑るように消えると、周囲は静寂に包まれる。
ひとりになった瞬間、押さえ込んでいた魔力が、じわりと蠢いた。
セオドールは、腐り溶けたように歪んだ氷へと手を伸ばす。
「…元に、戻す」
手をかざし、呟くように詠唱し始めるとセオドールの手が青白く光った。
すぐに氷が応える。
だが、それは命令に従ったというより、飢えた獣が餌に飛びつくような反応だった。
(…だめだ、魔法が広がりすぎる)
咄嗟に魔力を絞る。
指先が、微かに震えた。
(…言うことを、聞け…ッ…)
制御しようとすればするほど、氷は過剰に反応し、周囲を凍てつかせようとする。
今ここで全力を使えば、カインも、偵察隊も、まとめて凍らせることになる。
「…落ち着け」
自分に言い聞かせ、歯を食いしばり、呼吸を整える。
感情を切り離せ。
いつも通りだ。
魔法は感情と切り離して使うものだ。
しかし、胸の奥に、黒く冷たいものが渦を巻く。
幼い頃の記憶。
小さい体に有り余る程の魔力が溢れ出て、ちょっとした感情の起伏で制御がきかなくなった。
抑え込んできた怒り。
奪われてきたものへの憎しみ。
これまでも、いろんな感情が外に出ることを、極端に押さえてきた。
兄に魔法の制御の仕方を教えてもらい、成人を迎える頃には、感情と魔法は切り離すようになった。
だが、これは違う。
体の中から、無理矢理引き摺り出される魔力。
不快感と共に、全身を這う痛み。
脳裏に浮かぶのは、守りたいと願ってしまった存在の影。
(…ヒストリア)
一瞬、思考が逸れた。
その隙を、呪いは逃さなかった。
氷が、悲鳴を上げるように軋む。
「……っ!」
セオドールは膝をつきそうになるのを堪え、必死に魔力を束ねる。
―――できる。
…まだ、制御できている。
今、呑まれるわけにはいかない。
ゆっくりと、氷は本来の形を取り戻していった。
完全ではない。
だが、崩壊は止まった。
どれほどの時間が経ったのか。
遠くで、風を切る音がした。
「殿下!」
カインの声だ。
振り返ると、カインが数名の兵を連れ、魔方陣を展開している。
その中央には、倒れた先発の偵察隊が横たわっていた。
「全員、生きています!呪術により昏倒していますが、命に別状はありません!」
セオドールは、安堵の息を吐いた。
「…よかった」
カインは、その声に違和感を覚えながらも、急いで移送魔方陣を起動させる。
光が立ち上り、兵たちの姿が消えた。
「すぐに殿下も——…」
言いかけて、カインは言葉を失った。
セオドールの背後で、氷が、再び暴れ始めていた。
今度は、先ほどとは比べものにならない。
氷の魔力が、津波のように溢れ出し、大地を無差別に覆おうとする。
「…殿下?」
セオドールが、ゆっくりと振り返る。
その青い瞳は、いつもより深く、冷たい。
「…少し、厄介だ」
声は、静かだった。
だが、次の瞬間―――、
氷嵐が、一気に咆哮を上げた。
抑え込んできた魔力が、ついに、暴走を始めていた。




