93.氷の呪い
辺境の雪原は、異様なほど静まり返っていた。
本来なら、先に入っているはずの偵察部隊の足跡がない。
魔獣の跡も、人の気配も、何もないのだ。
「…妙ですね」
低く呟いたのはカインだった。
周囲の様子を探るが、まるで最初から何も存在しなかったかのように白で塗りつぶされている。
「痕跡がなさすぎるな」
セオドールは淡々と答え、周囲を見渡した。
永久凍土の近くであるにもかかわらず、地表の凍り方も不自然だ。
凍っているはずの地面が、ところどころ黒く濡れたように歪んでいる。
「…これが、報告にあった“氷が腐るように溶けている”…でしょうか」
「関係ない」
そう言い切ると、セオドールは一歩前に出た。
「全て上から凍らせる」
その言葉と同時に、空気が凍りついた。
地面から、音もなくいくつもの氷柱が立ち上がる。
雪原を覆う白が、一気に濃くなり、視界が歪むほどの冷気が溢れ出した。
―――その時だった。
「…かかったな、大公」
どこからともなく、掠れた声が響いた。
次の瞬間、雪面が割れ、黒い影がいくつも飛び出してくる。
漆黒の布に身を包んだ呪術師たちだった。
「…呪術師か!」
カインが即座に風を刃に変え、最前列の一人を切り裂く。
だが呪術師たちは倒れながらも笑っていた。
「散れ!!」
誰かの号令と共に、呪術師たちは四散する。
攻撃魔法を放ちながら、明らかに時間稼ぎを狙っていた。
「追うぞ」
セオドールは短く告げ、氷を地面に走らせる。
逃げる呪術師の足元が凍りつき、動きが鈍った。
しかし、
「……?」
セオドールは、微かな違和感に眉をひそめた。
(…なんだ、これは)
氷が、広がりすぎている。
狙った範囲を超え、雪原全体を覆おうとしていた。
「殿下ッ!!」
カインが一瞬、視線を向ける。
「今のは…?」
「問題ない」
セオドールは即答した。
「油断しただけだ」
そう言って、魔力を抑え込もうとする。
だが、思うように制御ができない。
セオドールの氷は従うどころか、まるで意思を持ったかのように広がり続けていた。
「…殿下?」
「…大丈夫だ」
声が、いつもより低く硬い。
呪術師たちを追い詰め、ついに逃げ場を失わせると、彼らは立ち止まった。
「俺たちは、滅ぼされた呪術国家の生き残りだ」
一人が気味悪く笑いながら言った。
「先代皇帝…、お前の父に国ごと滅ぼされた」
セオドールの瞳が、わずかに揺れる。
「目的は果たしたぞ」
その言葉を合図に、呪術師たちは次々と崩れ落ちた。
黒い泥のように溶け、跡形もなく消えていく。
「待て!」
カインが最後の一人を風魔法で縛り上げる。
「…何をした?」
男は、歪んだ笑みを浮かべた。
「…呪いさ。この土地に一定の魔力を巡らせるとかかるように作った。最初はあの憎い皇帝を殺ろうと思って作った呪いだったがな…」
「何の呪いだ…」
カインの問いに呪術師がニタニタ笑い出す。
「氷さ…。皇帝はもう死んだからなぁ…。同じく氷使いの息子に呪いをかけた」
男の視線が、真っ直ぐセオドールを射抜く。
「…氷の呪い、だと?」
「ゴホッ…、べ…別に魔力を暴走させる呪いじゃない」
男は咳き込みながら、続ける。
「普通の人間ならかけたところで大した効力もないだろうよ。…しかし、この呪いは、制御を奪う。お前のようなやつにぴったりの呪いさ」
「…ふざけるな」
「…俺はふざけてなどいない」
男は、満足そうに目を細めた。
「ゴホ…ッ、ゴホッ…、お前だけじゃない。お前から溢れ出す魔力は周りも巻き込んで、全てを凍らせるぞ」
その言葉を最後に、男もまた黒く溶けて消えた。
―――一瞬の静寂。
だが、次の瞬間、
「…ッ…!?」
セオドールの足元から、凄まじい冷気が噴き上がった。
氷が、止まらない。
魔力が、溢れ出してくる。
「殿下ッ!!」
カインが駆け寄ろうとするが、足元が一瞬で凍りつく。
「…っ、来るな…」
セオドールは歯を食いしばった。
魔力が、自分の意志を無視して広がっていく。
理性で押さえ込んできた何かが、氷と共に軋みを立てて壊れていく感覚。
自分はこれを知っている。
幼い頃に何度も陥りそうになった。
―――魔力の暴走。
抑えていたものが、壊れ始めていた。




