92.出立の朝
「……」
目を覚ました時、最初に感じたのは温もりだった。
背中に回された腕。
呼吸のたびに上下する、確かな胸の感触。
セオドールはまだ眠っているらしく、規則正しい呼吸だけが耳元で聞こえた。
昨夜のことが、断片的に思い出される。
言い争い。
不意の口付け。
強く抱き締められ、そのまま眠りに落ちたこと。
(…昨日のは、夢じゃなかった)
そう思った途端、胸の奥が疼いた。
ヒストリアが身を起こそうとした、その瞬間、
「…まだ、ここにいろ」
低く、眠りを含んだ声。
腕に力がこもり、引き戻される。
「起きてたんですか…」
「…いや、今起きた」
セオドールは目を開けないまま、短く言った。
「…おはようございます」
「…もう少しだけ、このままで」
その声には、珍しく柔らかさが残っている。
「…もう、起きなくては」
ヒストリアは小さく言う。
「わかってる」
それでも、すぐには離さない。
彼の額が、ヒストリアの髪に軽く触れた。
青い瞳と赤い瞳がぴたりと合う。
「…名残惜しい顔をするな」
「殿下こそ」
言い返すと、ふっと小さく笑う気配がした。
やがて、扉の向こうから足音が近づいてくる。
「殿下。そろそろご準備を」
カインの声だった。
空気が、一気に切り替わるのを感じる。
セオドールは静かに腕を解き、上体を起こした。
「…今、行く」
「先発隊はすでに出ました。我々の魔方陣も準備はすでに整っています」
「わかった」
扉越しに交わされる会話。
もう、部屋には昨夜のような柔らかな空気はない。
そこにいるのは、国を背負う大公の姿だった。
ヒストリアが自室で身支度を整えていると、外套を羽織り、剣を帯びたセオドールがやってきた。
「…ヒストリア」
呼ばれて顔を上げる。
「玄関まで来るか?」
「はい」
城の廊下を歩く間、言葉はなかった。
それでも、時折向けられる視線に、確かな想いを感じる。
玄関の外は、薄い朝靄に包まれていた。
雪は降っていない。
けれど、空気は張りつめて冷たい。
地面には、淡く光る魔方陣が展開されている。
セオドールとカインが、その前に立つ。
「…お二人とも、無事に、戻ってきてください」
ヒストリアの声は、震えなかった。
「約束だ」
セオドールは一歩近づき、ヒストリアの額に軽く手を置く。
「待っていろ」
「はい」
お互い、それだけで十分だった。
キイイイィーーン―――…
魔方陣が光を強める。
「留守をお願いします」
カインがそう言って、一度ヒストリアに向かって軽く会釈した。
次の瞬間、光が弾ける。
二人の姿は、白い光の中に溶けて消えていった。
残ったのは静寂だけ。
ヒストリアは、しばらくその場を動けなかった。
(…殿下とカイン様なら大丈夫)
朝の冷たい空気の中で、ヒストリアは静かに息を吸った。




