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91.前夜



―――冷たい。


それが、最初の感覚だった。


氷の大地に立っている。

見渡す限り白く、空も地面も境界が曖昧で、音という音が吸い込まれていた。


呼吸をすると、喉の奥が軋む。

吐いた息はすぐに凍り、粉のように崩れて消えた。

けれどその白い世界は、やがて裂けるように音を立てて、黒に侵されていく。


凍った大地が崩れ、空が砕け、氷の破片が風に舞う。


その中心に、誰か、いる。



雪の上に膝をつくセオドールの姿。



『…殿下!』


何度も呼ぼうとするが、その声は凍りついた空気に吸い込まれて消えた。



氷が鎧のように身体を覆い、青い魔力が暴風のように渦巻いている。


『…セオドール様…ッ―――!!』


そう呼びかけた瞬間、彼がようやくこちらを向く。


けれど、その目が―――


空虚だった。

感情も、理性も、何も映していない。


氷が砕ける音。

視界が白く弾ける。


胸の奥が、引き裂かれるように痛んだ。


『やめて…!!』


必死に叫ぶが、セオドールは一点を見つめたまま反応しない。


そのうち、彼の背中の氷にひびが入る。


氷が剥がれ、内側から、制御を失った魔力が溢れ出す。


このままでは彼が壊れてしまう。


止めなければならない。

そう思って手を伸ばした瞬間―――…




ヒストリアは、はっと目を覚ました。


胸が大きく上下し、喉がひりつく。

指先が冷たく、シーツを強く握り締めていた。


息を吸い込んだ拍子に、喉の奥が熱く痛んだ。


(…夢…?)


心臓がまだ速く打っている。



対照的に部屋の中は静かだった。


しかし、内扉の向こうにだけ、かすかに灯りの気配がある。


ヒストリアは寝台からそっと抜け出し、扉の前で一度息を整えた。


指先が震えるのを抑えながら、軽く扉を叩く。


「…殿下、まだ起きてますか…?」


小さく声をかけると、扉が開いた。


「…どうした?もう寝たんじゃなかったのか?」


低く落ち着いた声。

その声にどこかほっとする。


どうやらセオドールはまだ仕事をしていたようだ。

淡い灯火の下、分厚い書類が机の上に広げられていた。


「怖い夢でも見たか?」


ヒストリアは首を振る。


「…いえ。ただ、少し、眠れなくて」


夢のことを話せば、彼を不安にさせる。

そう思って、唇を噛んだ。


セオドールは小さく息をつき、内扉に手をかけた。


「…明日は早い。もう寝ろ」


「…はい」

素直に返したつもりだったのに、胸の奥がぎゅっ、と痛んだ。


(…本当に、行ってしまうんだ)


沈黙が流れる。



その沈黙に耐えきれず、ヒストリアは言葉を零した。


「…殿下」


「なんだ」


「…本当に、行かなくてはなりませんか」


セオドールの動きが止まる。

そして、ゆっくりと顔を上げた。


「あそこは国の境界だ。放っておけば、大公国だけじゃなく、帝国にも影響が出る」


「…危険なんですよね」


「ああ」

短く答えながらも、その声音には一切の迷いがなかった。


ヒストリアは視線を伏せる。


「……」


「心配するな」

彼は淡々と言いながらも、視線だけは優しかった。


「これまでにもこんなことはたくさんあった。それに、もし俺に何かあっても、お前のことは兄上が何とかしてくれるはずだ」


そう言って、微かに笑う。


「お前にはルーカスもいたな。何かあれば神殿に行けばいい」


軽く冗談めかして言ったつもりなのだろう。

けれど、ヒストリアの胸に突き刺さったのは、別の痛みだった。


「…そんな心配してません…ッ…」

思わず声が強くなる。


「私のことなんか、どうでもいいです」


セオドールの眉が、わずかに動いた。


「どうでもよくはない」


「どうして、そんな…、帰ってこないみたいな言い方するんですか?」


「そうじゃない。ただ、万が一のことを考えて言っただけだ」


「いつも何も言わないのに、なんで今日だけ…っ」


「…ヒストリア?」


「言わなくてもわかるとか…っ、こっちはわからないのに、わかるだろって態度で…!」


「……」


「そんな言い方されたら、不安になります!!」


自分でも驚くほど、涙が滲んでいた。


セオドールはゆっくりとヒストリアの方へ一歩足を進めながら、低く言った。


「…お前は、本当に減らず口だな」


「違います!だって殿下が――…」

その先を言う前に、唇が塞がれた。


息が止まる。

思考が止まる。


彼の指先が頬に触れた瞬間、その熱さに身体の奥まで溶けていくようだった。



「…お前が黙らないからだ」


唇を離し、囁く声が耳元をくすぐる。

ヒストリアは、顔を真っ赤にして言葉を失った。


「…っ、…」



「あと数時間後には出立だ」


セオドールは視線を外さずに続ける。


「それまで、一緒に眠るか」

その声に逆らう気力は、もうどこにもなかった。



灯りが落とされる。

静かな闇の中で、セオドールの腕がそっとヒストリアの背に回された。


鼓動の音が近い。

身体が、お互いの体温でゆっくりと熱を帯びていく。


「…殿下」


「…ん?」


「ここで待ってますね」


答えの代わりに、セオドールの腕が少しだけ強く抱き寄せた。


その温もりの中で、ヒストリアは目を閉じる。


不安はまだ消えないが、自覚したことがひとつだけあった。


(…ああ、やっぱり)


自分は、この人のことが好きなんだ。

胸の奥で、静かに確信が芽生える。




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