90.不穏な依頼
ノルディア城に、封蝋付きの文書が届いたのは、セオドールの午前中の執務が一段落した頃だった。
カインが差し出した封筒には、大公国辺境の紋章と、緊急を示す赤い刻印が押されている。
セオドールは一瞥すると、淡々と封を切った。
「…討伐要請?」
その声色は、いつもと変わらない。
だが、ヒストリアは気づいていた。
彼の指先が、ほんの一瞬だけ、紙を強く掴んだことに。
「…魔獣、ではないようですね」
カインが文面を覗き込み、訝しげに言う。
「“氷を侵す呪術士集団”…?なんだ、これは」
「氷を、侵す…?…どういう意味でしょう」
辺境は、マックスがいる北方の境界と同じく、永久凍土に近い土地だ。
一年を通して氷が解けることはなく、氷属性の魔力が濃く満ちているはずの場所。
「報告によると…、」
セオドールが文書を読み上げる。
「地面が凍らない。氷結魔法が歪む。氷そのものが腐るように崩れる、と」
その言葉に、室内の空気がわずかに張り詰めた。
「…そんな現象、聞いたことがない」
カインが眉をひそめる。
「氷属性への干渉魔法か、あるいは―――…」
セオドールは、そこで言葉を切った。
「呪い、か」
ヒストリアの胸に、冷たいものが落ちた。
(なんだか嫌な、感じ…)
理由はわからない。
ただ、胸の奥がざわついた。
感じたことのないような不穏な感覚。
「殿下…」
ヒストリアが声をかけると、セオドールはそちらを見た。
「不安か?」
問いかけは静かだった。
ヒストリアは、正直に頷いた。
「何か、嫌な感じがして…」
その言葉に、セオドールは一瞬だけ目を伏せる。
「今回の依頼は、帝国にも共有されているそうだ」
そう言って、彼は机の上に設置された魔方陣へと手を伸ばした。
複雑な文様が端から淡く光り、空気が揺らぐ。
次の瞬間、魔方陣の上に、映像が浮かび上がった。
皇帝、レオンハルト・フォン=アストレイア
『…セオか』
落ち着いた声。
穏やかだが、どこか緊張を孕んでいる。
「お久しぶりです、兄上」
セオドールは簡潔に頭を下げた。
『辺境の件は聞いている』
レオンハルトは静かに続ける。
『正直に言うが、お前が行くのは危険だ』
ヒストリアの胸が、きゅっと締めつけられた。
「いや、俺以外に適任はいない。俺なら、氷が溶けていようが腐って崩れていようが、上から凍らせてやれます」
レオンハルトは、わずかに苦笑する。
『それは、そうだが…』
「…なら、行きます」
セオドールは即答だった。
その迷いのなさが、ヒストリアをさらに不安にさせる。
『呪術師集団、というのが気になる』
レオンハルトは言葉を選ぶように続けた。
『帝国でも、氷属性を侵す術式の研究記録は極めて少ない。先代の皇帝である父上の属性も氷だったからな。どちらかといえば帝国では禁忌に近い』
「氷を破壊するのではなく、腐らせるとは…」
セオドールの声が低くなる。
その時だった。
魔方陣の文様が一部変化し、別の声が割り込む。
『…クソガキ、聞こえているか?』
少し掠れた、しかし聞き慣れた声。
「…リュカ様?」
ヒストリアが思わず声を上げる。
『ヒストリア、元気にしているか?クソガキに何かされたらいつでも神殿に来るんだぞ』
通信用魔方陣越しに、大神官ルーカスの姿が浮かぶ。
「…この通信魔方陣は兄上との密談用なのに、なんでこのジジイが…」
その姿を、セオドールがあからさまに嫌そうな顔で見た。
『俺の神力を甘く見るな。可愛い孫娘のために警告に来てやったんだからありがたく思え。敬意を示せ、このクソガキが』
相変わらずな二人のやり取りに、ヒストリアはほんの少しだけほっとした。
『ま、まぁまぁ、大神官様。あとでミレイユが選んだ菓子など届けさせますので…』
レオンハルトがそう言うと、“仕方ないな”と、言ってルーカスが話し始める。
『その件だが、嫌な予感がする』
彼は、珍しく真剣な表情をしていた。
『報告にある“凍らない氷”と“歪む魔力”…魔力を喰う呪いの特徴に近い』
室内が、静まり返る。
「…魔力を、喰う?」
カインが低く繰り返した。
『正確には、属性魔力に寄生する呪術だ』
ルーカスは続ける。
『特定の属性を糧に増幅し、術者の制御を狂わせる。対象の魔力が強ければ強いほど―――、』
言葉が、途切れる。
ヒストリアは、嫌な予感の正体を悟った。
『暴走の危険がある』
ルーカスの視線が、セオドールに向けられた。
「…いや、やはり俺が行く」
セオドールは淡々と言う。
「放置すれば、辺境は崩壊する。その前に呪術士ごと凍らせてやる」
『理屈はわかるがな』
ルーカスは苦く笑った。
『お前自身が“餌”になる可能性もあるんだぞ』
「問題ない。やつらの呪術と、俺の魔力、どちらが強いかだけの話だ」
その言葉にヒストリアは、ぎゅっと拳を握った。
「殿下…」
ヒストリアはセオドールを見る。
その青い瞳は、いつもと同じ。
冷静で、揺るぎない。
「大丈夫だ」
セオドールが気付いてそう返すが、その言葉が、ヒストリアの胸をさらに締めつけた。
(…本当に?)
底知れぬ魔力を持ち、暴君と呼ばれながら、理性で魔力を抑え込んできたセオドール。
だからこそ、ヒストリアは強い不安を拭えずにいた。
何か、よくない事が起こる。
そんな予感が、胸の奥で静かに、しかし確かに、広がっていた。




