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9.東と西の罠



「姫さん、食事」


ヒストリアの暮らす塔に食事を運ぶのが、衛兵――ノエルの日課になっていた。


初めは水やスープが銀盆の上に飛び散っていたが、十日も経つ頃にはヒストリアに矯正された姿勢をすっかり自分の物にしている。


「ノエル様、花嫁様に失礼ですっ!」

食事を運ぶ以外の身の回りの世話は、元通りエマがしてくれている。

真っ赤な顔で怒るエマを気にする様子もなく、ノエルがニヤッと笑う。


「姫さん、今日も()()()


二人がこの十日やっていること―――




「肘が下がりすぎ。重心がずれてる。視線はこちらではなく刃の先に」


塔の一階、庭と呼ぶにはあまりに狭いが、四方を壁に囲まれた中庭のような空間がある。

もちろん厳重に鍵のかかっている塔の内側ではあるが、この場所でヒストリアはノエルに剣の型を教えていた。


ノエルは15歳で、今年入隊したばかりの新人衛兵。体格に恵まれているのに、剣の扱いに伸び悩んでいた。

彼の姿勢の癖を見抜いて矯正してくれる上官がいなかったためだ。


「また肩に力が入ってる。腕ではなく、腰と足を意識して」


ヒストリアの声に、ノエルは舌打ちしながらも黙って足を開いて構える。


ほんのわずかに剣先が安定した。


「そのまま。今の形を覚えて」

塔にあるわずかな窓から差し込む光が白く揺れ、二人の影が重なった。



「…姫さんってさ」ノエルがぽつりと言った。


「…うん?」


「…変なやつ。こんなところに閉じ込められてるのに、俺なんかに親切にするし」


「そう?」


「…ほんと、変だ」

その声には、初めてほんの少しだけ敵意のない響きが混ざっていた。



その様子を塔の外壁の影から見下ろす人物、

―――カインだ。


「…なるほど」

その唇には、意味を読ませない微笑が浮かんでいた。




*******

夜の冷気が張り詰める中、カインは城内の氷の回廊を歩きながら、後ろに控えているノエルを見もせずに言った。


「…姫の様子は?」

「…と、特に変わりはありません」

大公の側近であるカインと、新人衛兵のノエルでは立場が全く違うため、ノエルは緊張しながら話している。


「ずいぶん()()に過ごしているようだが」

カインがくすりと笑う。



―――剣の稽古をしてるのがバレてる…?

ノエルは口を閉ざした。


その沈黙に、カインは立ち止まって振り返る。

琥珀色の瞳が、少年の額を射貫くように冷たい。


「…明日の夜、塔の東側の門の警備を一時的に外す。お前は、それを彼女にそれとなく知らせろ」


ノエルの肩がびくりと動いた。

「…も…、もし逃げたら…、」

「その時は捕らえて報告しろ」


―――短い沈黙。

ノエルは拳をギュッと握ったまま、深く頭を下げた。

「…承知しました」




*******


その夜。

ヒストリアの部屋の扉が、控えめに叩かれた。


「…どうしたの?ノエル」

「姫さん、ここを出たい?」

視線を泳がせながら、小声で続ける。


「…どういうこと?」

ヒストリアは彼をじっと見た。


「…もし…、姫さんがここから逃げたいなら、明日の夜がチャンスです。…あ…、明日の夜、東側の門の警備がなくなるらしくて…、」


「…私が逃げると思ってる?」

ノエルは答えず、無言で俯く。


「…エマが、言ってた。前の花嫁は突然消えた―――たぶん…消されたって」


「……」


「だから、逃げ出すなら明日が…」

それだけ言うと、部屋を出ていこうとして、ほんの一瞬だけ振り返る。


「…もし、本当に逃げるつもりがあるなら、明日は東の門じゃなくて、西です」

「え?」

ノエルが急に真剣な顔になり、本当に小さな声でヒスとリアに囁いた。


「誰にも言わないで。エマにも。西に行くと古い排水路があって、そこを進むと城の外に出られる」


それだけ言うと、静かに扉が閉まった。


ヒストリアはしばらくその場から動けなかった。


―――これは、罠だ。

でも、ノエルのあの表情は、嘘をついてるようにも見えなかった。


ヒストリアは、胸元のペンダントを握り、静かに息をついた。


「…東か西…」

小さく呟いた声は、静寂の塔の中に吸い込まれていった。




*******

次の日の夜更け―――

塔の窓から見える月が美しく輝いている。


ヒストリアはじっと、ぼんやりと光る遠くの門を見つめていた。


たしかに、東側の警備が薄くなっている。

ノエルが言った通り、門の周囲には衛兵の姿が見えなかった。



ペンダントの赤い石を握りしめると、母の姿が思い出される。


「…お母さん…」


…お母さんに会いたい。

ヒストリアの目に涙が浮かぶ。

この国に来て、初めて流した涙だった。


本当は今すぐ逃げ出して母に会いたい。

でも、母がいるあの国にはもう帰れないだろう。

けれど、ここに残っても何をされるかわからない。


息を詰めるように迷うその指先が、胸元のペンダントを掴む。



――どこへ行っても、

お母さんの心はあなたと一緒よ


あなたの心のままに生きて――



ヒストリアは静かに目を閉じた。

そして窓から離れると、フッと息を吐いてランプの火を吹き消した。



「…どこにいても、私は私だから」



暗闇の中、彼女は小さく呟いた。



*******

翌朝、カインの執務室にノエルが呼び出された。書類に目をやったまま問いかける。


「…で、姫はどうした?」

「…逃げませんでした」


「へぇ…」

短い言葉に、カインが軽く笑った。


「東門には行ったのか?」

「…いえ、行ってません」


「…つまらないな。お前が伝えたのに」

ノエルの喉がひくりと動いた。

沈黙が少し続いたあと、ぽつりと呟く。


「…実は、姫様には…、西に抜け道があると伝えました」


書類に目をやっていたカインの手が止まる。

ゆっくりと視線を上げ、鋭く

ノエルを射貫く。


「―――命令違反だな」


「申し訳ありませんでしたッ…」

深く頭を下げるが、目の前の机に座る琥珀色の瞳の男が一体どんな表情で自分を見ているのか、恐怖で目が開けられない。


「それで、そちらの抜け道に行ったと?」

カインは、持っていた羽根ペンを机に置き、椅子に背を預ける。


「…いえ、姫様は部屋から出ていません」


「つまり…、お前も試されたというわけか」

ノエルが顔を上げると、カインの口元にわずかな笑みが浮かんでいた。


「…ふふっ…、なかなか面白い」

カインは立ち上がり、窓の外に目をやる。

朝の光が反射して、遠くの塔が輝いていた。


「セオドール殿下にはこの件の報告はまだ不要。…もう少し観察してみよう」


ヒストリアがただの贈り物の花嫁だとは思っていない。

けれど、敵なのかもわからない。


ノエルを欺くわけでもなく、逃げもせず、堂々と塔に残った。


カインの胸中に、理解不能な存在として、淡い好奇と違和感が混ざり始めていた。



「…では、姫に朝の挨拶でもしに行くとするか」


その表情は冷たく、そしてどこか愉しげであった。




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