プロローグ
雪は、音もなく落ちていた。
フェルバール王国使節団の馬車の車輪が、雪を踏みしめる音だけが真っ白な森の中に響いている。
北方にある大公領との境界に近づく頃にはいよいよ雪が深くなり、窓の外の、どこまで続いているのかわからない白銀の世界に目をやりながら、ヒストリアは小さく息を吐き出す。
と、その時―――
「リヴィアナ様」
窓にやっていた視線を声の主に向けると、目の前に座っている女が睨み付けるような表情ででこちらを見ていた。
「…何を驚いているのです?」
「…いえ…、その…」
どうやら、溜め息をついたことを咎められるわけではなかったようだ。
呼ばれ慣れない名前に、反応が遅れてしまった。
「…まったく、こんな半端な娘が大公の花嫁だなんて」
「…半端…ですか」
ヒストリアは、無意識に自身の首にかけられているペンダントに触れる。
これに触るたび、母の言葉が胸を締め付ける。
―――ヒストリア
あなたは自由に生きなさい…―――
「えぇ、だってそうでしょう?本来なら姫様などではないただの私生児のくせに、リヴィアナ様の身代わりとして大公国に嫁ぐなんて。あぁ、その貧相な首飾りをくださった母上様もさぞかしご安堵なさったでしょうね」
その時、馬車が一度大きく揺れた。
雪道に車輪が沈んだのだ。
女が舌打ちをする。
「なんてみすぼらしい道!あなたの生まれにぴったりね」
ヒストリアは黙っていた。
「聞いているの?リヴィアナ殿下」
わざとらしく皮肉を言うこの女は名をカーラといい、普段は王妃付きの侍女をしている。
王妃の側近ともいえるカーラにとって、王、つまり王妃の夫の私生児を嫌うのは当たり前かもしれないが、ヒストリアはフェルバール王国から大公国までの長旅の馬車の中、度々聞かされるカーラの嫌味に耐えている。
「どうせ、お前なんてすぐに大公に殺されてしまうわ。…ふふ、せいぜいその男をたらしこむ母親譲りの顔で大公殿下に笑って差し上げることね―――」
その瞬間、馬車の底板の下から―――
金属の音が小さく響いた。
カーラが顔をしかめる。
そして何かに気付くよりも早く、
ヒストリアの指が床の隙間にかかる。
板が軽く持ち上がり、冷たい鋼の光が覗いたと思ったら、鞘から抜かれた刃が一瞬でカーラの頬を掠めた。
その距離はほんの数寸。
「母から譲り受けたのは、顔だけではないのですが。…試してみますか?」
「…っ!――な、なにをッ…!!」
カーラの背筋が凍りつく。
ヒストリアの声は静かだった。
怒鳴り声でも、激情でもない。
「私への暴言は構いません。ですが、母の侮辱は二度としないでください」
青ざめたカーラが震えながら頷くと、ヒストリアはすぐに剣を鞘に戻した。
音もなく、滑らかに。
その沈黙の中て、ヒストリアは再び窓の外を見つめた。
雪は止まず、そのうち1本の大きな木が見え始める。
―――国境に到着しました。
御者のそんな言葉と共に、馬車が止まった。
ドアが開くと、冷たい空気が流れ込んでくる。
「…あなたが贈り物の花嫁様ですね。」
冷気と共に現れたのは、ドアの縁を掴んで中を覗き込む黒銀の鎧を纏った男。
鎧と言っても兜をつけているわけではないので、雪明かりにさらされて顔がはっきりと見えた。
銀灰の髪の整った顔立ちの男だが、微笑みを浮かべた表情とは裏腹に、冷たい琥珀色の瞳は全く笑っていなかった。
ヒストリアが一度だけ深く息を吸い込む。
心臓の鼓動すらも、冷たい空気に溶けていくようだった。




