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定年の晩

作者: 中山俊文

 男は事務所を出ると、いつものように神田駅に向かった。昨日までは通り道のあれこれについて何も考えずに通り過ぎた街も、なぜか今日は一つ一つが目に留まる。これが最後に見るこの街だという感慨が男の胸を覆っていた。おそらくもう神田駅から事務所に向かって歩くことはないのだ。

 男はこの日停年となり、同僚と最後の挨拶を交わして出てきたところであった。特に急いで歩いたわけでもないが、すぐに駅についてしまったような気がした。最後となる街の風景をしみじみ味わいながら歩いたせいだろうか。

 男はやってきた埼京線の大宮行きに乗った。車内は通勤ラッシュが始まる少し前でまだ混んでいなかった。男はドアの近くに立っていたが、何故か涙がこみ上げてくるような気がして、秋葉原で降りてしまった。どこに行く当てもなかったが、ぼんやりと御茶ノ水の古レコード屋に行ってみようかと思って中央線のホームに回った。階段もホームもかなり混雑してきた。電車が、ものすごい勢いでホームに入ってきたが、急速にスピードを緩めて止まった。ドアが一斉に開くとたくさんの人々が降り、また乗った。

 御茶ノ水の古レコード屋は男の行きつけの店である。狭い階段を上がって行くとき、上から降りてくる客と体を壁に擦り付けるようにしてすれ違った。降りてきた客は、今買ったらしい分厚く膨らんだこの店のマークのついたビニール袋を抱えていた。男もこれまで数え切れないほどあのようにしていそいそとこの店を後にしたものだ。

 男は中古LPのフロアに入った。世の中はすでにCDの時代であるが、まだLPも豊富に中古としてワンフロアを占めて売られていた。

男は特に欲しいレコードがあるわけでもなく、なんとなくレコードを一枚いちまい繰った。夕もやに煙る山並みの写真がジャッケトいっぱいに載っているレコードに男は手を止めた。ワルター指揮のブラームスの交響曲第四番のレコードだ。同じレコードを男は持っているが、しばらくジャケットを眺めているうちに、曲の冒頭の調べが男の心にわきあがってきた。男は、わけのわからないもやもやした今の心境にその音楽も写真もよく合うと思った。不意に狭い通路を無理やり通ろうとする客に体を押されてよろめいた。男の心に響いていた音楽は中断された。

 男は店を出て再び中央線に乗り、秋葉原から埼京線に乗り換えた。電車が大宮に近づく頃、外はすっかり暗くなっていたが、はるか西のほうが僅かに明るさを残しており、その濃い茜色のなかにうっすらと富士山が見えていた。男はさっき見たレコードのジャケット写真と似た夕空の色だなと思った。いや、あれよりも相当暗いな、などととりとめもないことを考えているうちに電車は大宮に着いた。

 男はサラリーマンの群れに混じって電車を降り、もくもくと階段を上がり、駅前のバス停の列に並んだ。並んでいるのはほとんどが男性で、勤め帰りのように見える。師走にしては特に寒くはなかったが、みんな手をポケットに入れて無口だ。男が毎日見てきた『××駅前』と行き先を表示したバスがやってきた。人の群れは列の前から無言で乗り込んでいく。男も人につかえるようにしながらバスの中に飲み込まれた。男はあいている一番後ろの席に腰を下ろした。後から来た乗客が男の横に割り込み、男が少し姿勢を動かして、最後部の座席は五人の客で安定した。数人が通路に立った状態でバスは出発した。ここから男が降りる自宅近くのバス停まで約三十分、男はいつもこの時間を居眠りして過ごす。この日もバスが動き出すと条件反射のようにまぶたが下がってきた。

 しかしこの日は二、三分で目が覚めてしまった。バスはまだ駅前の混雑した道路から抜け出せずに、信号待ちの列に並んでいる。男は突然立ち上がると、バスの天井に並んでいる赤いランプのついたブザーを押した。ランプが点灯して、『次ぎ止まります』という文字が明るくついた。同時にワンマンの運転手が、

「つぎとまります」

とアナウンスした。他の乗客が男のほうを見た。駅前を出発してすぐ次で降りる男を、忘れ物でもしたのかという目で見る人もいた。あるいは、バスを乗り間違えたように見えたのかもしれない。サラリーマンの通勤時間帯ではあまりそのようなことはおきない。

 やっと信号を通り過ぎて大きな通りに出てすぐにバスは道路わきの停留所に止まった。男はバスカードを機械に通してバスから降りた。乗ってくる客はなく、男を下ろすとバスはすぐに発車していった。

 暗くなった歩道で、ぼんやり立っている男をよけながら勤めを終えたらしい人々が行きかう中で、男はなんとも言えない寂寥感に胸を締め付けられる思いで立っていた。たくさんの人々がいる街の真ん中で、男は孤独だった。多くのサラリーマンたちと同じように、自分も毎日目標のある人間として朝晩ここを通ってきた。もう二十年以上続いた生活パターンだった。それが、男には無くなったのだ。男は今日、転勤を含めて三十五年間の勤めを終えたのだった。

 送別会などはすでに何日も前に終わっていて、この日はただ同室の人たちと最後の挨拶を交わして、会社を後にしてきたのだった。


 家には妻が一人で男の帰りを待っているはずである。妻は専業主婦で、家は借家住まいである。借家といっても、家賃の半分は会社が払っている、いわゆる借り上げ社宅で、退職に際して、会社からは一ヶ月くらいで家を空けるようにいわれていた。すでに別の借家が見つけてあって、少しずつ片付けも始めていた。

 男は家の方角に向かって歩き出した。家に帰り着いたとき、待っている妻とどんな顔で相対するのかイメージが定まらない。男は、とぼとぼと歩いた。これまでにもこの道を歩いて帰ったことは何度もある。バスがひどく混んでいるときや、バスが出たばかりのときである。歩くときはバス路線ではなく、近道となる路地を通るので、家まで約四キロの道のりだが、これまでは一日の仕事の疲れや、空腹もあって案外遠く感じたものである。しかしこの日は、あれこれ考える時間が足りないうちに家が近づいてしまった。

「ただいま」

男は玄関を開けると、いつものとおりのつもりで声をかけた。家の中からはテレビの音が聞こえてくる。いつもは奥のほうで妻が夕食の支度をしながら、

「おかえり」

と大きな声で答えるのだが、この日は、急いだ足音を立てながら玄関に出てきた。妻の足音を聞いた瞬間、男はいつもと違うと感じた。玄関に現れた妻の顔を見ないようにして男は靴を脱いだ。妻は、

「おつかれさま」

と、ややしんみりした声をかけた。そのとき男は胸がいっぱいの状態だったので、きっと表情にそれが表れていると思い、妻が気づかなければいいと思った。男は、声が詰まってしまいそうなので声が出せないでいた。妻はそれを察したのか、

「ご飯出来ているから、」

とだけ言って、先におくへ入っていった。男は自分の部屋でゆっくりと着替えをし、洗面所で手と顔を洗った。いっそのことそこで、出るものなら涙を出し切って、すっきりと顔を洗って居間に行きたかったが、そう都合よく胸のつかえは晴れなかった。

 食卓はいつになく品数が多く並んでいた。食卓に妻の気持ちを読み取った男は、それまでにもまして胸がいっぱいになってしまった。妻も何もいわないところを見ると、同じ気持ちなのかもしれないと、男は思った。食卓についた男の向かい側に、準備を整えた妻も座った。男はぎこちなく、やっとの思いで

「いただきます」

といった。小さな声しか出なかった。妻は、どうぞという感じで小さくうなずき、手でもそのようにしぐさをした。男には晩酌の習慣がない。二人は無言で食べ始めた。男は口を動かした弾みで、涙がこぼれ落ちてしまった。何も悲しいわけではなかった。ただ、何かが終わってしまったという感情だけが、男の胸を支配していたのだ。それを見た妻も、箸を置いて下を向いてしまった。下を向いた妻ははらりと自分のひざに涙を落とした。やがて妻は気を取り直して、男のほうを見た。二人は互いに照れくさそうに笑顔をかわした。しばらく無言で食べ続けたが、男も少しずつ落ち着いてきて、胸のつかえも抜けてきた。しかし食事の間にひとことふたことさして意味のない会話が交わされただけであった。

 食事の後男は帰りに立ち寄った店で見たあのブラームスのレコードを聞いてみたくなったが、自室にこもってブラームスの四番を聞くなどあまりにも感傷的に思えたので、その晩は妻と他愛のないテレビを見て過ごした。


 これが男とその妻の、停年の晩の風景であった。(完)


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