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僕が見つけた、君の本当の色

作者: Tom Eny

薄ピンクのベレー帽と、君だけの光


1. 見つめるだけの日常


夏の日差しがアスファルトを揺らし、じりじりと焼ける熱気が革靴の裏から全身を包む。高校二年の佐野悠真は、汗で張り付くワイシャツの不快感も忘れ、人波に紛れて歩いていた。周りの生徒たちは部活へ急ぐ。その熱を帯びた雑踏は、悠真には遠い世界のようだ。小学校高学年から、何かに夢中になる友人を横目に、自分だけが空っぽで、打ち込めるものがない。そんな漠然とした焦燥感が、いつも胸の奥で渦巻いていた。何をしたいのか、どこへ向かえばいいのか。問いかけるたび、思考は砂のように指の間からこぼれ落ち、彼の日常を灰色に染めていた。


新宿駅東口。地下通路のひんやりした空気から解放されると、一気に人の波に飲み込まれる。ビジネスマンの硬質な靴音、観光客の弾む笑い声、車のクラクション。ビルの壁を彩る巨大なLED広告はまばゆい。すべてが悠真には、皮膚一枚隔てた向こう側の出来事に見えた。自分はただの観客で、決して舞台には上がれない。


ふと、視線を上げた先。広場の片隅に、彼の目に飛び込んできた光景があった。


雑踏とは隔絶されたように、一人の少女がいた。悠真は、その瞬間、周囲の喧騒が遠のき、世界が彼女を中心にして回り始めたような錯覚に陥る。少女の頭には、ふわりとしたかわいい模様の薄ピンクのベレー帽が、夕日に透けてほんのり輝いている。帽子から覗く、少しだけはねた前髪の下、彼女の瞳は足元のキャンバスに釘付けだった。


彼女は、まるで周囲に誰もいないかのように、一心不乱に絵筆を動かす。指先に絵の具の青が鮮やかに付着し、滑らかなストロークでキャンバスに載せられるたび、街の騒音とはまるで違う、彼女自身の生命力がそこに息づく。絵の具の微かな匂いが、熱気と混じって悠真の鼻腔をくすぐった。彼は、その姿から、彼が持たない**「目標に向かう熱」**が、肌にひしひしと伝わってくるのを感じた。それは、あまりに眩しく、そして、なぜか胸が締め付けられるほど切ない光景だった。


悠真は、大勢の人に紛れ、雑踏の影に身を潜めるように立ち止まり、ただ彼女を見つめた。彼女が時折、絵に興味を持った通行人に向ける笑顔は、夏のひまわりのように明るく、きらめいていた。しかし、その笑顔が消え、再びキャンバスに向き合うほんの一瞬、薄ピンクのベレー帽のつばの下で、彼女の顔に深い影が宿るのを悠真は見抜いていた。その影は、彼女の描く鮮やかな色彩とは対照的で、まるでその絵と同じくらい、彼女の笑顔もまた、何かを隠すためのものなのではないか、と疑問符を投げかける。自分は何をしたいのか分からない悠真にとって、彼女をこっそり観察することが、いつしか彼の日常にひそやかな目的を与え始めていた。彼女がそこにいるだけで、世界の解像度が上がった気がした。


2. 出会いと依頼


連日、悠真は放課後になると、吸い寄せられるように広場へ足を運んだ。美咲がいない日も少なくない。そんな日は、得体の知れない喪失感が悠真の胸を占め、広場の喧騒も色あせて見えた。だが、次に彼女を見つけた時の喜びは、その喪失感を補って余りあるものだった。携帯のギャラリーには、いつしかこっそり撮った美咲の背中やベレー帽の写真が増えていた。秘密の宝物だ。


ある夕暮れ時。西に傾いた陽がビルの谷間に沈みかけ、空が燃えるようなオレンジ色に染まる。美咲はいつものようにキャンバスに向かい、悠真は少し離れた場所で、景色の一部になったように見つめていた。その時、突如強い突風がビル街を吹き抜け、美咲の足元にあったスケッチブックが宙を舞った。紙が風を切る「バサッ」という生々しい音が耳に届く。


「あっ!」


美咲の小さな声が、風の音にかき消されそうになる。スケッチブックは風にあおられ、悠真の目の前を通り過ぎ、あわや車道へ。悠真は考えるより早く、体が動いていた。


「危ない!」


彼の手が、ぎりぎりのところでスケッチブックの端を捉える。薄い表紙をめくると、ラフな線で描かれた街の風景や、人々の日常のスケッチが垣間見えた。インクの匂いが微かに鼻をくすぐる。彼はスケッチブックをしっかりと抱え、顔を上げた。


そこには、驚きと安堵の入り混じった瞳で、悠真をまっすぐ見つめる美咲がいた。普段は絵に没頭しているか、笑顔の彼女の、感情がむき出しになったような表情に、悠真は一瞬、息をのむ。心臓がドクドクと大きく脈打つのを感じた。


「あの……これ、落ちましたよ」


悠真は、自分の声が少し震えていることに気づいた。スケッチブックを差し出す彼の手も、わずかに震えている。


美咲はゆっくりとスケッチブックを受け取ると、視線を悠真の顔へと向けた。瞳に警戒の色はない。むしろ、どこか深淵を覗き込むような、吸い込まれそうな眼差し。その瞬間、悠真の胸に、これまで感じたことのない、強烈な予感がよぎった。


「ありがとう……」


美咲の声は、風の音に負けないくらい澄んでいて、心に直接響くようだった。二人が、初めて言葉を交わす瞬間だ。悠真の顔に、じんわりと熱が広がるのを感じた。


「……ねぇ、もしかして、いつも見てる?」


美咲が、ふいに悪戯っぽい笑顔を浮かべ、悠真の目を覗き込むように尋ねた。悠真は「ドキッ」として、心臓が跳ね上がった。顔がカッと熱くなる。まさかバレているとは。彼は慌てて視線を逸らし、口ごもる。


「い、いや、その……たまたま、通りかかっただけで……」


「ふーん、たまたまねぇ?」美咲は面白そうに首を傾げた。薄ピンクのベレー帽がゆらり、と揺れる。「でも、私のこと、よく見てたでしょ? なんか、視線感じるなって、実は薄々思ってたんだよね」


美咲の言葉は、まるで彼の心の中を読み上げているようで、悠真はますます狼狽した。それでも、彼女の笑顔は悪意がなく、むしろどこか楽しそうで、悠真の緊張を少しだけ和らげる。彼の頬に、ふと心地よい風が触れた。


「あの、君は……その、絵が、すごく……」


悠真がしどろもどろになりながら絵を褒めようとすると、美咲はくすっと笑い、ベレー帽を少し傾けた。そのしぐさは、陽だまりのような温かさがあった。


「ありがとう。……ねぇ、佐野くん、だよね? 同じクラスの」


悠真は驚いて美咲を見た。彼女が自分の名前を知っていることに、彼は予想外の喜びを感じた。


「うん……花野さん、だよね」


美咲はにこっと笑う。「はい、花野美咲です。改めて、スケッチブック拾ってくれてありがとう」


その後も、悠真は広場での美咲をこっそり見守る日々を続けた。しかし、一度言葉を交わしたことで、美咲は時折、悠真の方に視線を向けるようになる。その視線が合うたび、悠真の胸は小さく跳ねた。


ある雨上がりの日。空にはまだ灰色の雲が厚く垂れ込め、アスファルトには水たまりが光っていた。湿った空気が肌にまとわりつく。悠真が広場に着くと、美咲は傘も差さずにキャンバスに覆いをかけ、肩を小さく震わせていた。Tシャツの肩口が、雨でじっとりと濡れている。体調が悪そうだった。唇は薄く色を失い、目の下のクマが影を作る。その表情は、ひまわりの笑顔とはかけ離れた、疲労の色だった。


「花野さん、大丈夫?」


悠真は思わず駆け寄った。美咲は「あ、佐野くん」と、少し驚いたように悠真を見た。その顔色は、いつにも増して青白い。声も、さっきまで響いていた喧騒に吸い込まれそうなほどか細い。


「ちょっと、冷えちゃったみたい……」美咲は無理に笑おうとするが、その笑顔はすぐに揺らいで消えた。指先が、わずかに震えているのが見えた。


悠真は、自分のリュックから、いつも持ち歩いている、洗剤の優しい匂いがするタオルハンカチを取り出した。 「これ、濡れてないから。よかったら、これで頭とか拭いて」


美咲は戸惑いながらも、そのハンカチを受け取った。その指先が、わずかに冷たい。悠真は、さらに自分が着ていた薄手のパーカーを脱ぎ、迷うことなく、そっと美咲の肩にかけた。乾いたパーカーの温もりが、冷えた美咲の肌に伝わる。彼女の体温が、パーカーを通して悠真の指先にわずかに伝わるのを感じた。


「風邪ひいちゃうよ。……無理、しないでね」


悠真の声は、ごく自然に、そして心から心配している響きを帯びていた。彼の言葉は、美咲の心にじんわりと染み渡るようだった。美咲は、パーカーの袖を掴み、小さく頷く。その瞳は、瞬きとともに、わずかに潤んでいるように見えた。


「佐野くん……ありがとう」


その日以来、悠真は美咲の横顔を見るたび、彼女の笑顔の裏に隠された影が、以前よりもはっきりと見えるようになっていた。そして、美咲もまた、悠真の不器用な優しさに、少しずつ心を開き始めているようだった。二人の間には、言葉だけではない、温かい空気が流れ始める。


そんなある日、学校の帰り道、偶然美咲と二人きりになった時だった。駅前のカフェのガラス窓に映る自分たちの姿が、並んで歩いているのが見えた。美咲は、いつものようにどこか遠くを見るような瞳で空を眺めていたかと思うと、くるりと悠真の方へ向き直った。その目は真剣で、広場で絵を描く時と同じ「熱」が宿っていた。


「佐野くん……私の絵の被写体になってくれないかな?」


悠真は突然の申し出に戸惑い、顔を赤らめる。自分のような、これといって特徴もない人間が、彼女の真剣な絵の被写体になるなんて、と恥ずかしさがこみ上げる。心臓が、また大きく跳ねた。数秒の、重い沈黙が流れる。その間に、悠真の頭の中では、美咲の絵の具の匂いや、彼女のベレー帽の色が鮮やかに浮かび上がっては消えた。彼女の「輝き」を、もっと近くで見てみたい。その衝動が、彼の内気さを乗り越えさせた。


「わかった、やってみる」と、震える声で答える悠真に、美咲は小さく微笑んだ。その微笑みは、彼の胸に温かい光を灯した。彼女の瞳の奥に、確かな喜びの光が宿るのを感じた。


3. 深まる絆と才能の影


悠真を被写体とした絵の制作が始まった。放課後。埃っぽい美術室の窓から差し込む西日が、古い木製の机に長い影を落とす。部屋には絵の具の独特な匂いが満ち、キャンバスを擦る筆の音だけが静かに響いた。悠真は正面に座り、美咲の集中した横顔を見つめる。彼女の瞳は宝石のように輝き、その中に自分の姿が映り込むたび、悠真の胸は高鳴った。美咲は、悠真の内面に潜む「光」を探るように、顔の輪郭や光の当たり方を繊細な筆致で捉えていく。彼女の視線が、彼の心の奥底まで見透かすようで、悠真は時折、居心地の悪さと、同時に不思議な高揚感を感じた。この特別な時間は、二人の間に言葉を超えた深い信頼と絆を育んでいった。互いの存在が、相手の心を少しずつ解きほぐしていくようだった。


「佐野くんさ、いつも静かだけど、絵を描いてる時って、なんか落ち着くんだよね。不思議」美咲が筆を止めずに、不意にそう言った。 悠真は「そう、かな」と曖昧に返す。「君が、すごく集中してるからかな」 美咲はふっと笑った。「そうかもね。……ねぇ、佐野くんって、将来何になりたいの?」 悠真の言葉が詰まった。視線を泳がせる。「まだ……全然、何も……」 美咲は静かに悠真の顔を見つめた。「そっか。でも、何かを必死に探してる感じ、するよ。私は、そういう佐野くんの『光』を描きたいんだ」 彼女の言葉は、悠真の心に温かく響いた。自分の何もない焦燥感も、彼女には「光」に見える。そんな彼女の視点が、悠真にとっては初めての体験だった。


やがて絵は完成し、全国規模の美術展で入賞する。悠真は自分が描かれた絵の入賞に衝撃と感動を覚えた。彼の内気な世界では考えられなかった、眩しいほどの評価だ。美咲は喜びを見せるものの、その表情にはどこか複雑な影が差していた。目の下のクマが濃くなっていたり、指先に絵の具がついていない日が増えたりと、悠真は彼女の「無理」がますます深刻になっていることに気づく。彼女の笑顔は、以前にも増して固く、まるで精巧な仮面のようだった。時折、ふっと意識が遠のくように視線が定まらない瞬間もあった。


二人は「デート」として、入賞作品が展示されている都内の美術館へ見に行く。磨き抜かれた大理石の床に靴音が静かに響き、静寂が支配する空間には、かすかに絵画の香りが漂っていた。美咲の絵は、白い壁にスポットライトを浴び、多くの観客の心を惹きつけていた。悠真は、その絵から発せられる力強い輝きに、美咲の才能を改めて実感した。絵の中の自分は、自分自身が知らない「光」を放っているように見えた。


その時、二人の前に、美術展の企画にも携わった名高いアートディレクターが現れた。彼は黒のスーツに身を包み、鋭い眼差しで美咲の絵を見つめている。口角が、わずかに上がるのが見えた。


「君が、あの絵の作者ですね。素晴らしい感性だ」ディレクターの低く響く声が、悠真の耳にも心地よく届く。「特に、あの少年(悠真)の内面に宿る漠然とした光を、ここまで鮮やかに描き出した表現力。まるで、そこに光が『見えている』かのようだ」


美咲は、ディレクターの言葉に、嬉しそうに、しかしどこか不安げな笑みを浮かべた。 「ありがとうございます……」


「そして、君が、この作品の『光』そのものだと描かれた被写体の方かな?」ディレクターは悠真に視線を向けた。


突然の言葉に、悠真は顔を赤くして、戸惑いながら美咲のほうをチラリと見る。美咲は悠真の照れた顔を見て、くすっと楽しそうに小さく笑みを浮かべた。その笑みは、広場の時と同じ、屈託のないものだった。 「佐野くん、褒められてるよ」美咲が小さく囁く。


アートディレクターは美咲の絵の技術と表現力を称賛し、その将来性に大きな期待を寄せた。 「花野さん、君の絵には、人の心を揺さぶる力がある。もっと多くの人に君の絵を届けたい。もし良ければ、一度、私の事務所に話を聞きに来ませんか?」


美咲の顔がぱっと明るくなる。悠真も、彼女の喜びに自分のことのように胸が高鳴った。 「佐野くんもね」ディレクターは悠真にも向き直った。「アートの世界は、描く人だけじゃない。アーティストの才能を見つけ、彼らの想いを形にし、作品を通して人々に届ける人も、とても大切な役割なのよ」


彼の言葉は、漠然と美咲を支えたいと思っていた悠真の心に、電流のように響いた。心臓が、これまで感じたことのない高鳴りを覚える。**「アートディレクター」**という具体的な職業への憧れが、彼の胸に芽生え始める。彼はアートディレクターの言葉の端々に、美咲の絵の輝きだけでなく、その繊細さや危うさを見抜いているような、深い洞察を感じ取った。この人物は、美咲の「無理」にも気づいているのではないか、と。


しかし、この入賞という輝かしい成功は、美咲を救うどころか、「もっと期待に応えなければ」という新たなプレッシャーとなり、彼女の「無理」をさらに悪化させていく。 美術展の後、悠真の視線に映る美咲の笑顔は、ますます薄い膜が張られたように見えた。その笑みが、顔の筋肉にわずかな歪みを生じさせているようにも見えた。彼女の指先が、いつの間にか絵の具の付いていない白いままになっていることに、悠真は気づいた。


4. 異変と覚醒


入賞から数週間が経った。美咲が広場にも学校にも姿を見せないことに、悠真は胸騒ぎを覚えていた。教室の美咲の席が、冷たい空気だけを置いて空っぽになっている。授業中も、美咲の姿を探しては、空席に視線が吸い寄せられた。あの朝の顔色の悪さ、展覧会で見せた複雑な表情、そして日増しに濃くなっていた目の下のクマがフラッシュバックし、彼女の「無理」がついに限界に達したことを確信する。悠真の胸は、得体の知れない不安で締め付けられた。喉の奥がカラカラに乾く。もう、傍観者ではいられない。彼の内気な心が、熱い覚悟で燃え上がった。


彼はまず、美咲の担任の先生に美咲の様子を尋ねた。職員室の重い空気が悠真の肩にのしかかる。先生は、美咲が以前から体調を崩しがちで、最近は特にひどく登校できていないことを、沈痛な面持ちで話した。「花野さんは、本当に真面目な子だから……自分を追い込みすぎちゃうところがあるのよ。特に、今回の入賞で、さらにプレッシャーを感じているようで……」という言葉に、悠真は美咲の「無理」の深さを改めて感じた。胸の奥がチクリと痛む。彼女がどれほど苦しんでいるのか、考えるだけで息が詰まった。


さらに悠真は、美咲の親友に接触した。放課後の人気のない廊下で、声をかける悠真の声は、緊張で震えていた。親友は目に涙を浮かべながら、美咲が**「入賞後、自分を追い込み、『もっと期待に応えなきゃ』ってこれまで以上に自分を追い込むようになってしまって…。絵も描けなくなっちゃって、部屋に閉じこもっているの」**という「実情」を打ち明けた。親友の嗚咽混じりの言葉が、悠真の胸に突き刺さる。美咲が幼い頃、絵の評価を巡る出来事で深く傷つき、それ以来、「完璧でなければ」というプレッシャーを抱えるようになったことも、親友の口から零れた。美咲が絵を描くこと自体が苦痛になっていることに衝撃を受け、悠真は彼女を「救いたい」という強い思いを胸に、震える指でスマホを握りしめ、彼女の自宅を突き止める。彼の足は、美咲の元へ向かって、無我夢中で走り出していた。アスファルトを蹴る靴音が、彼の決意を刻むようだった。息を切らし、肺が熱くなるのを感じながら、彼は走り続けた。


5. 支え合いと再生


悠真は、ようやく美咲の自宅の前にたどり着いた。インターホンを押す指が、恐怖と緊張で冷たい。何度も躊躇し、一度は引き返そうとさえしたが、彼の心の中の「美咲を助けたい」という叫びが、彼の足をその場に縫い付けた。深く息を吸い込み、固く目を閉じて、もう一度、インターホンを押す。玄関のドアがゆっくりと開くと、そこにいたのは、やつれて生気を失った美咲だった。彼女の目には光がなく、頬はこけ、まるで別人のようだった。漂う空気は、重く、澱んでいる。部屋の奥からは、微かにホコリの匂いがした。


美咲は、悠真に絵へのプレッシャー、過去のトラウマ、そして「無理」をしていた真実を、途切れ途切れに、しかし必死に打ち明けた。その声は枯れ、表情は絶望に満ち、筆を握れない手の震えを悠真は目の当たりにする。その指先は、まるで冷たい石のように固くなっていた。悠真は言葉巧みに励ますことはできない。気の利いた言葉なんて何も出てこない。ただ黙って彼女の隣に座り、その冷たい手をそっと包み込み、その苦しみを共有した。美咲の小さな肩が、わずかに震えているのが伝わった。悠真の手のひらから伝わる温もりが、美咲の指先に少しだけ熱を取り戻す。


美咲が広場から姿を消した際、彼女の薄ピンクのベレー帽もまた、広場から姿を消していた。悠真は美咲の部屋で、ベッドサイドの椅子に無造作に置かれたそのベレー帽を見つけた。埃をかぶったベレー帽は、まるで美咲の失われた輝きを象徴しているかのようだった。美咲は、絵が描けない現状から悠真の存在すら拒絶しようとする。顔を背け、小さく首を振った。


「私、もう、描けない……」美咲の声は、ほとんど聞き取れないほどだった。「期待に応えなきゃって思ったら、手が震えて、何も描けなくなっちゃった……」


数秒の、重苦しい沈黙が流れた。その沈黙の中で、悠真は美咲の苦しみが、自分の「何もない」焦燥感とは比べ物にならないほど深く、重いことを痛感した。だからこそ、彼は思った。自分には何もないけれど、彼女のこの苦しみを、少しでも和らげたい。彼女の絵の力を、もう一度見たい。


悠真は意を決して、美咲の目を見つめ、静かに、しかし力強く言った。


「美咲……お願いがあるんだ。…今の、俺を描いてほしい」


悠真の声は、不安で震えていたが、その瞳はまっすぐだった。その言葉には、美咲を救いたいという彼の純粋な願いと、彼女の絵の力を信じる想いが込められていた。それは、評価を求めるものではない。美咲の絵の力を信じ、彼女の「視点」で「存在」を描いてほしいという、悠真の「差し出し」だった。美咲の瞳に、わずかな光が宿るのが見えた。その光は、閉じかけていた彼女の心の扉を、微かに開かせた。


美咲の親友や担任の先生も協力し、文化祭で美咲の絵の展示会を企画することを決意する。美術室は、悠真が中心となり、クラスメートや美術部員、先生の協力を得て、手探りで準備が進められた。金槌が釘を打つ「コンコン」という軽快な音、新しい木材の匂いと絵の具の匂いが混じり合う。悠真は、アートディレクターとして、壁に飾る絵の配置を何度も練り、一枚一枚の絵が持つメッセージをどう伝えれば良いか、熱心に議論した。彼の傍観者だった日々からは想像もできないほど、彼は能動的に動き、その顔には生き生きとした充実感が浮かんでいた。額には、心地よい汗が滲んでいる。


最初はその再起に戸惑い、筆を握ることを拒む美咲。手が震え、絵の具を落としてしまう。「ごめんなさい……」と小さく呟く彼女に、悠真はそっと汚れた指先を拭い、何も言わずに新しい絵の具をパレットに出した。友人たちの「美咲の絵が大好きだから」「君にまた笑顔で絵を描いてほしい」という純粋な思いに触れ、少しずつ心を開き始めた。そして、悠真が手渡した、埃を払った薄ピンクのベレー帽を、震える手で再びかぶる。そのベレー帽の温かい感触が、美咲の指先を伝って、心を穏やかにしていく。美咲の指先が、久しぶりに絵の具の冷たさを感じ、キャンバスに触れる。悠真が求めた「今の彼」を描くことを通して、彼女は、評価や期待ではない、真実の自分と絵への向き合い方を見つけていく。再び筆を動かす美咲の顔に、失われかけていた生命の輝きが、徐々に戻っていくのを感じられた。その筆致は、迷いなく、力強さを取り戻しつつあった。


文化祭当日。体育館の一角に設けられた展示スペースは、多くの来場者で賑わっていた。賑やかな話し声と、文化祭特有の甘い匂いが混じり合う。美咲の絵は、温かいスポットライトを浴び、静かな感動を呼んでいた。悠真が「今の自分を描いてほしい」と依頼した、美咲の再生への第一歩となる新作も飾られていた。その絵は、以前の入賞作とはまた違う、内側から湧き出るような温かい光に満ちていた。絵の具の一つ一つに、美咲の心の回復が宿っているようだった。美咲は、悠真や友人、そして自分の絵を見つめる人々の温かい眼差しの中で、心からの笑顔を取り戻した。その笑顔は、かつてのひまわりのような明るさに、深い安堵と感謝の感情が加わった、本物の輝きを放っていた。悠真もまた、その笑顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


6. エピローグ:それぞれの未来へ


季節は巡り、東京の街の風景は移り変わる。冬の冷たい風が吹き、落ち葉が舞う。美咲は文化祭での成功を経て、再びあの駅前広場で絵を描き続けている。しかし、その顔は以前のような強張った笑顔ではなく、穏やかで、本心からの微笑みを浮かべている。彼女の絵は、内側から湧き出る「生きる喜び」に満ちた輝きを放ち、広場を行き交う人々の心を動かす。時に、美咲は筆を止め、悠真の隣に座り、通り過ぎる人々の何気ない会話に耳を傾けたり、風の匂いをかいだりする。それは、かつて彼女が見落としていた、日常のささやかな輝きだった。美咲の瞳には、かつて宿っていた影はなく、澄み切った空の色が映し出されている。


悠真は、大学でアートマネジメントを学び、アートディレクターとして活動を始めている。彼の指先には、常にペンやタブレットが握られ、その瞳には、かつての焦燥感はもうない。強い意志と、確かな目標の光が宿っている。彼は美咲の隣で彼女の絵を眺めていた。美咲は、かつて悠真を被写体として描いた入賞作品や、文化祭で展示された「今の悠真」の絵が、自身の再起と悠真との絆の証として、大切に飾られているのを見る。それらの絵は、二人の旅路を静かに物語っていた。悠真は、美咲の絵が持つ力を信じ、新たな才能を見出すことに情熱を注いでいる。彼のオフィスには、まだ見ぬアーティストたちの作品が並び始めていた。


悠真と美咲は、東京の街の片隅で、手を取り合う。悠真の手のひらは、美咲の指の冷たさを感じ取り、温かく包み込んだ。二人の指が絡み合う。それは、困難を乗り越え、互いの弱さも強さも理解し合った、かけがえのない絆の証だった。街には、二人が描き出した新しい未来が、鮮やかな色彩で広がっていた。彼らは、これからも互いを支え合い、それぞれの夢に向かって歩んでいく。そして、あの広場には、今日も美咲の絵筆が奏でる、静かで力強いリズムが響いている。その音は、彼らの未来への希望の歌のように、悠真の心に響き渡っていた。

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