第三話
春の風は、あの頃より少しだけ柔らかく感じた。
東京での生活にも慣れて、美術の勉強に追われる日々。
…でも、ふとした瞬間に思い出すのは、あの美術室の匂いと、あの人の声だった。
卒業してから三年。
私は小さなグループ展に絵を出すため、地元のギャラリーに作品を送った。
展示初日、私は客のいない午前の時間にひっそりと足を運んだ。
まだ名前の知られていない私の絵に、どれくらいの人が目を止めてくれるのかなんて、わからなかったから。
けれど——
「……やっぱり、あなたの絵は変わらないわね」
その声が、背中越しに聞こえた瞬間、すべての音が遠くなった。
振り返ると、そこには村瀬先生がいた。
髪が少し短くなっていて、前より柔らかい雰囲気をまとっていた。
「先生…来てくれたんですか?」
「“先生”じゃないわ。もう、そう呼ぶ関係じゃないでしょう?」
その言葉に、心が震えた。
でも、怖くて聞けなかったことを、私はやっと口にした。
「まだ、私のことを……覚えていてくれましたか?」
先生はふっと笑って、私の描いたキャンバスの前に立った。
「毎年、春が来るたびに思い出したわ。ひまわり畑と、あなたのまっすぐな目を」
私は思わず、こみ上げたものを飲み込んで、ゆっくりと一歩、彼女に近づいた。
「今の私は、“あのときの私”じゃありません。
でも、先生を…ずっと好きなままの“私”です」
先生は目を伏せて、ほんの少しの間だけ言葉を探していた。
そして、優しく頷いた。
「…私も。
あなたを、生徒じゃなくて、“あなた”として、ずっと見ていたのかもしれない」
春の光が、ギャラリーの窓から差し込む。
その光の中で、先生が私の手をそっと握った。
「今なら、ちゃんと笑えるわ。……だから、やっと言うわね。
久しぶり。会えて、嬉しい」
ようやく交わされた、あのときの“約束の続き”。
そして私は、初めて本当に報われた恋の中に立っていた。