第一話
放課後の美術室には、絵の具の匂いと、夕陽が差し込んでいた。
私は絵筆を握ったまま、静かにその人を見ていた。
「また残って描いてるのね、藤村さん」
先生は、窓際で紅茶のカップを持ちながら微笑んだ。
美術の村瀬先生。大人っぽくて、静かで、だけどどこか近づきがたい。
…私が密かに心を寄せている人。
「先生が、私の絵を『好き』って言ったから、もっと見てもらいたくなって」
私の声に、先生は少しだけ目を伏せた。
その横顔が、ほんの一瞬だけ、脆いもののように見えた。
「私は教師よ、藤村さん」
「わかってます。だけど、私は生徒である前に…ひとりの“私”です」
先生は驚いたようにこちらを見た。
私の筆は止まらない。けれど、心臓の音がうるさいほど響いていた。
「私、先生のことが好きです。先生の描く世界も、先生の声も、全部」
しばらく沈黙が流れて、やがて先生は私の隣に歩いてきた。
そして、私のキャンバスの前で立ち止まった。
「…この絵、好きよ。まっすぐで、きれい」
「それ、私の気持ちです。先生に向けた」
ふっと先生が笑った。悲しそうに、でも、どこか嬉しそうに。
「私があなたの生徒じゃなかったら、もっと素直に笑えたかもしれない」
「じゃあ、卒業したら、笑ってくれますか?」
先生は何も言わず、そっと私の髪をなでた。
その手のぬくもりだけが、すべての答えだった。