他人欲
人間の三大欲求は『食欲』、『睡眠欲』、『性欲』だとされている。
しかし俺には最後のが無い。自身の性的欲求を満たしたいという心の働きがないのである。
その代わり、俺には他人を欲する欲が備わっている。魅力的な他人を見ると、欲しくなってしまうのだ。
欲しくなるといっても、抱きたいとか、口をつけたくなるとか、そんなのではない。ただ純粋に、自分のものにしたくなるだけだ。いつも傍に置いておきたい。いつも眺めて鑑賞できる位置にいてほしい。
そして他人になりたいのである。
自分ではない他人の人生を味わいたい。
他人になるため、他人を欲する欲求。
俺は自分のこの欲求を『他人欲』と名づけた。
今日は魅力的な他人を見た。仕事先の工場に入構するため受付の順番を待っている時、ひとつ前に眼鏡をかけた細身の女性がいた。美人ではなかったが、とても身綺麗なことに感動し、俺はその人を欲した。
しかし仕事中である。自分の好きなようには動けなかった。彼女は受付を済ませると、乗ってきた軽自動車に乗り込み、広い工場の敷地へもう入って行ってしまった。俺は急いで受付手続きを済ませたが、彼女を乗せた軽自動車はもう工場敷地の奥へと姿が見えなくなるところだった。
「ああ……。彼女になりたい」
荷物を運び込みながら、俺はそのことばかり考えてしまっていた。
「あの女性になれたら、世界はどんなふうに変わるだろうか」
黒縁のメガネをかけた、真面目そうな他人だった。40歳手前といったところだろうか。きっと独身だ。仕事に生きているという感じがする。それでいて、自由時間には奔放だ。自分の好きなものをいくらでも持っていて、裏ではペットに囲まれていたり、危ない男遊びを楽しんでいたりする、奥深い他人だ。平凡な俺とはまったく違う。他人に知られて困るような秘密など一つしかなく、表向きの顔が社会的に『しっかりしている』などと評されて尊敬されることもない、まるでのっぺらぼうのような俺とはまったく違う、魅力ある他人だった。
俺は彼女を欲した。
名前も知らないが、彼女という他人を欲した。
工場を去る時、偶然に、受付でまた彼女と出会った。今度は俺のほうが前にいて、彼女が一つ俺の後ろだった。神様に感謝した。
駐車場に停めてあった彼女の商用バンの後部座席に先に乗り込んで待っていると、何も気づかずに彼女が運転席に入ってきた。
俺は後ろから首を締め、彼女を自分のものにした。
普通の人に他人欲がないのは、単に不可能だからだろう。不可能なことをしたいと思うのは欲望ではなく、妄想と呼ばれる。
俺は彼女になり、彼女の会社に帰り、仕事が終わると彼女の帰り道を帰り、彼女のマンションに帰った。女になるのはこれで何度目か。ゆえに異性になることに対する興奮はなかったが、他人になる興奮はいつも通りだった。
そして醒めるのもいつも通り早かった。彼女は俺が思ったよりは、魅力ある他人ではなかった。俺が期待していたほどの奥深い秘密などはなく、どこにでもいるような、平凡な、つまりは私はまたのっぺらぼうになった。
私はまたもや強烈なほどの他人欲に囚われはじめた。いくら他人になっても満足することがない。この欲望にはキリがないのだろうか。
また魅力的な他人を見つけた。今度は女子高生だ。とても顔もスタイルもいい娘で、しかし髪型もアクセサリーもイケてない。ファッションに興味がない私としては、あまり垢抜けた娘にはなりたくないので、内面から滲み出すようなその美貌に惹かれた。
何よりその娘は私が商用バンで会社から出掛ける途中、いつも一人で歩いて帰宅しているのだった。とてもやりやすい。毎日出会えるので急ぐ必要はない。帰り道は危険に満ちているなんてことには少しも気づかず、世界の善良さを信じきっているような、心優しそうな、光に溢れているような、私の憧れるような娘だった。
今度こそは満足できるのではないかという気がした。
次こそ自分に満ち足りて、もう他の誰かになりたいと願うことのない、ほんとうの自分になれるような気がした。
その日を夢見てゆっくりと、楽しみにその時を待つとしよう。あの娘が帰り道で足に怪我でもしていたら、「乗せて行ってあげるわ」と背後から声を掛けよう。私は40歳手前のキャリア・ウーマンだから、あの娘が警戒することもないだろう。
しかし今でもたまに思う。
元々の私は、一体誰であったのかと。