9話
夏花が冬史郎付きの女中となって、十日ほど経った。この日は艶子が来訪する予定となっていた。
『僕は絶対にあの人と君を会わせないからな。絶対に部屋から出てくるんじゃないぞ』
『そんなこと言われましても……』
冬史郎は夏花が艶子と接触することを非常に警戒しているようだった。夏花に部屋から出ないように言いつけるほどに――。
(ご主人様が奥様を嫌うのはわかるけど、どうして私まで巻き込まれないといけないのよ! 部屋から出るななんて。奥様に会って、何か恐ろしいことが起こるわけでもあるまいし……)
しかし冬史郎から部屋にいるよう命じられたにも関わらず、夏花は自室から離れた布団部屋の隅で膝を抱えていた。
「私にとってはご主人様の方がよっぽど恐ろしいわ……」
冬史郎は日々、夏花の屁を要求してきた。
もちろん呪いの浄化のためなのだが、それより夏花が恐ろしく感じたのは「とめどなく嘘を吐き続けられる冬史郎」である。
あべこべな天気の話から始まり、『僕は正直者だ』、『早く出ていけ』、『君の顔なんか見たくない』などなど……。はっきり嘘とわかることでも、チクチクと心を刺される。
(今までは相手が嘘を隠していることに悲しくなっていたけど、初めから嘘だとわかっていても嫌なものなのね。はじめて知ったわ……)
夏花は山のように積まれた布団に背を預けながらため息をついた。
さらに夏花を疲弊させるのは女中たちの態度。夏花が冬史郎付きになったことで、他の女中たちからの当たりが急に強くなったのだ。
『いったい下働きがどうやって冬史郎様に取り入ったのかしら。お近づきになろうとした女中がお茶をかけられて怒鳴られるほど、冬史郎様は女嫌いだって噂なのに……』
『部屋まで与えられて偉そうに。ああ、でもいつも“出て行け”と言われているものね。体の良い憂さ晴らしなのかしら。いい気味』
夏花が部屋にいる時を狙って、廊下を通る女中たちは聞えよがしに嫌味を口にする。
別邸の女中たちは夏花たち下働きに思うところはあっても、面と向かって嫌味を言うようなことはなかった。だからこそ今回、はっきりと声に出されると心に堪えるものがある。
(嘘だとわかってしまうことも、真正面から本音を聞くことも、どちらもつらい……。それにご主人様が前の不気味な姿だったらあの人たち何か言ったかしら……)
それに今日は艶子の来訪に備え、緊張感が高まっているせいか嫌味が特にひどかった。夏花が部屋にいることを知り、障子越しに次々と投げかけられる女中からの嫌味。夏花はその状況に耐え切れず、自室を逃げ出して今に至る。
飛び込んだ布団部屋は滅多に人が足を踏み入れない場所だ。屁がこらえられなくなった時に時々使っていた、夏花の秘密の場所の一つでもある。
(ご主人様にしても自分が良ければ私がどう思われようと良いだなんて、そんな身勝手な話ある? あの時お給金たんまりもらって辞めておけばよかった。まあどれもこれも、変な意地はっちゃった自分のせいなんだけど……)
夏花の胸には不満しかなかった。屁をこかせたいばかりで嘘をつき続ける冬史郎。突然現れた下働きに出し抜かれた女中からの恨みつらみ。
そして、判断を間違えた自分自身――。
(なんの役にも立たない屁っこきの体質が認められたのは少し嬉しい。でも“嘘”と“本音”ばかりに向き合わないといけないのがこんなにつらくて、怖いだなんて思わなかった)
考えれば考える程にため息をつく気力すら湧かずに、夏花は膝を引き寄せて身体を丸くした。
だが夏花が膝に顔を埋めると同時に、ガタンと扉が引かれた。
「――っ?」
驚いた夏花が顔を上げると、同じく驚いた顔をして立っている人物がいる。
「夏花……」
「巴ちゃん!」
姿を現したのは下働き仲間の巴だった。ここしばらく顔を合わせることも、話す機会も持てずにいた巴に会えたことで夏花の気分は一気に浮上していった。
「良かった! 巴ちゃんに会えるなんて……」
「な、夏花。どうしたの、こんなところで? ご主人様は?」
今まで毎日顔を合わせていたのに急に離れてしまったからだろうか。巴の声は何となく固かったが、変わらない笑顔が夏花を安心させた。
「あー、今少し時間があって。ねえ、何か私に出来る仕事ないかな」
「え……。大丈夫なの?」
「もちろん!」
「……じゃあ、こっちの片づけお願いして良いかな」
「任せてちょうだい!」
自らの嘘に腹の中でわずかに屁が動いたが、夏花は気づかなかったことにした。少しでも動いて、気を晴らしたかったのだ。
だから巴の問いに夏花は大きく頷いた。巴がわずかに表情を曇らせたことにも気づかず――。