8話
「僕なりの思いやりと牽制だ」
使用人たちの前で冬史郎付きとして指名された夏花は、戸惑いと不満の混ざり合ったヒソヒソ声と視線を背に受けながら広間を後にした。
なぜあのように皆の前で指名したのか、と冬史郎に尋ねると返って来たのが冒頭の台詞だった。
「君だけを呼び出し続けたら、それこそ皆疑問を持つだろう? それなら僕付きにしてしまった方がいいじゃないか。それに周知しなければ君が誰かに取られてしまう可能性もある」
冬史郎は夏花の不満など知ったこっちゃないとでも言わんばかりの涼しい顔をしている。
「あの場で名指しされる方が問題では? それに『誰かに取られる』って何ですか? 一応私も責任を持って働いて――」
「僕は独占欲が強いんだ。君をいつでも側に置いておきたい」
冬史郎は夏花の言葉を遮り、きっぱりと言ってのけた。言葉だけ聞けば熱烈な愛の告白のようにも聞こえる。だが夏花は冷静だった。
(ご主人様のこれまでの言動を思い出せば、今の言葉が『自分の好きな時に屁をこかせるため』だとわかるわ。この人、自分のことしか考えていないんだもの……)
夏花は無意識に苛立ち紛れのジトっとした眼差しを向けてしまっていた。夏花の視線に気づくやいなや、何か思いついたらしい冬史郎の顔がパァッと明るくなった。
「そうだ、もっといいことを思いついたぞ夏花。僕とけ――」
「すみません、夏花さん。坊ちゃまが無い頭を絞って捻り出した案だったのです。ご勘弁いただけませんか」
「え、あ、はぁ……」
「あっ、おい八尾! 勝手に終わらせるな!」
冬史郎の口をふさぐように割り込んできたのは八尾だった。そのせいで冬史郎の言いかけた言葉が聞き取れなかったが、夏花は内心ホッとしていた。
(『僕とけ』? 何を言おうとしたのかしら。まあ、どうせろくでも無い思いつきに変わりはないわね。はぁ……、これから毎日ご主人様のこれに付き合わされるの? 想像しただけで耐えられない……。巴ちゃんと話す時間が持てるといいけど)
がっくり肩を落とした夏花をよそに、不満げな冬史郎に向き直った八尾は、深刻そうな面持ちで口を開いた。
「それより坊ちゃま。十日後また艶子様がお見えになるそうです」
「断れ」
「いつも断っております」
「昨日来たばかりだろうっ! くそ、見合い話は必要ないと言ったのを聞いてなかったのか?」
憎々しげに悪態をつく冬史郎を夏花は不思議な思いで眺めていた。
(本邸の奥様、艶子様はご主人様の継母にあたるのよね。昨日来ていた女中たちはひどかったけど、ご主人様がここまで嫌がるってことは逆にまともな方なのでは……。だってご主人様はどう考えても変だもの……)
そう思ってしまうほど、夏花が冬史郎へ抱く印象はすでに最悪だった。
(屁をこかせるのも、嗅ぐのも……そして“呪い食い”にしても、普通なら理解できないことだわ。物狂いって思われても仕方ないのにこんなに堂々としているだなんて。私が屁のことでこれまでどんなに悩んで、どんなに恥ずかしい思いで過ごしてきたかわからないんでしょうね……)
沸々とこみ上げてくる怒りにぼんやりと身を任せていると、気付けば冬史郎が夏花に胡乱な目を向けていた。
「――っ、なにか?」
「『なぜ断るんだ』と思っているだろう?」
「いえ……」
考えていたことは違うが、どうやら黙ってしまった夏花の様子に、冬史郎は「艶子を断る」ことに夏花が疑問を覚えたと思ったようだ。
(ということは、少しは断ることを後ろめたく思っているってことなのかしら。人の気持ちなんか考えないくせに、自分が嫌なことは避けるんじゃない……)
だが夏花の予想に反して、次に見た冬史郎の顔からは何の感情も読み取ることができなかった。ただ怒りとも失望ともつかない苦しさを押し殺した声で冬史郎は語った。
「艶子はかつて亡くなった母付きの女中だった。それが今は僕の継母だ。会いたくない理由ならそれだけで十分だろう?」
「あ……」
淡々と語る冬史郎に夏花は声を無くした。
冬史郎は嫌なことを避けているというよりも、既に傷ついた心を守ろうとしているのだろう。
(な、なによ。自分はちゃんと傷つかないようにするんじゃない。それなら少しは人の心の痛みにも気を遣えばいいのに……)
冬史郎が語った状況から推測するに、丹羽家は想像よりも複雑な家庭状況らしい。
夏花は内情を知ってしまった事実と、冬史郎の抱えるものを知らずに一方的に「気持ちを理解しない」と決めつけていた気まずさから顔を伏せてしまった。
「それに……」
だが冬史郎にとって丹羽家の複雑さはさほど重要ではなかったらしい。冬史郎はこっちの方がよっぽど重要だと言わんばかりに声を潜め、真剣な顔で夏花に告げた。
「艶子は“本物の嘘つき”なんだ。いいかい、夏花。あの人だけは信じたらいけない。君が信じるのは僕だ」
冬史郎の真剣な視線は夏花にまっすぐ突き刺さった。