6話
幼い頃、ままごと遊びで空の容器から物を食べたり、汁を啜ったりの真似事をしたことがあると思う。
冬史郎の「呪い食い」は、例えて言うならばままごと遊びの仕草だった。
冬史郎は両手に持った手鏡を、まるで盃でも傾けるように口元に寄せた。していることと言えば、ただ宙に浮かぶ空気を吸っているだけだ。だが夏花はその様子を息を飲んで見つめていた。
(何あれ? 何もないはずなのにご主人様の口に何か流れ込んでいるように見える……)
夏花の目には冬史郎の手の傾きに合わせて、手鏡からドロリとした液体が流れ落ちるように見える。冬史郎がしかめる顔から味まで伝わってくるようで、夏花は思わず目を逸らした。
「呪いはおいしくないらしいのです」
夏花の様子を見ていたのだろう、八尾が声をかけて来た。八尾の言葉は投げやりだったが、わずかな憐れみも含まれていた。
「あの、食べてどうするんですか……?」
いつの間にかカサカサになっていた唇を舐め、おそるおそる尋ねた夏花に、八尾は細い目をさらに細くしながら静かに答えてくれた。
「呪いを食べ尽くし、綺麗な姿に戻ったら本来の持ち主にお返ししますよ。これらは全て帝からのお預かりものなので……」
(へぇ、帝からのお預かりものね、さっぱりわかんないわ。……ん?)
夏花は一応納得したように頷いてみた。だが湧き出た疑問が、ふと口から飛び出してしまった。
「帝?」
「ええ、帝です」
「え、帝って、あの?」
この国の頂点には「帝」という神のような立派なお方がいると教わって育つ。夏花も例にもれずそう言われて育ってきた。とはいっても夏花の周りに「帝」を見た人など誰もいなかったが……。
(実在するんだ、「帝」……様?)
八尾の言葉に屁は湧き出なかった。事実なのは間違いないのだろうが、どこか夢のようなふわふわした感覚だった。
(丹羽家ともなると、帝とも繋がりがあるんだ……。変なご趣味のご主人様だけど、やっぱりすごい家柄のお方なのよね)
その時、「ゴクン」と喉を鳴らして、何かを飲み込む音が聞こえた。夏花の思考は冬史郎の飲み下す音で現実に引き戻された。
「あいつ、僕のことを都合のいい掃除屋だと思っているんだ。っげふ……くそ、年期が入った物よこしやがって。あの女たらしめ……」
「――ひっ?!」
ブツブツと恨み言を口にする冬史郎に視線を戻した夏花は、彼の変わり果てた姿に悲鳴を上げそうになった。
引き締まっていたはずの頬はげっそりとこけ、目の周りは黒く落ちくぼんで亡者のようになってしまっている。身体を起こしていることすら辛いらしく、前のめりに畳に手をつく冬史郎の胸元からは、骨が浮き出た首や喉がはっきり見て取れた。
「でも今の僕には夏花がいる。フ、フフフ……さあ、夏花。屁を、屁をこいてくれ!」
ズズッ、ズズッ……と畳を這うように夏花に近づく冬史郎の姿は、積年の恨みを晴らそうとする亡霊のようだ。ニッタリと浮かべる笑みに、先ほどまでの冬史郎の爽やかさは微塵も感じられない。
「ひ、ひいっ! 来ないでぇっ!」
「なぜだ、夏花! 君を心から愛する僕に、屁を、屁をこいてくれっ」
ボコッと腹の中で屁が動いたものの、夏花は冬史郎の不気味さに思わず後ずさりしていた。
「夏花ぁ~~」
(い、いやっ!! こわいぃぃ~~っ!!)
ジリジリと近づいてくる冬史郎の骨と皮だけの指が夏花の足に今にも触れそうになる。その時、八尾の声が部屋の中に響いた。
「坊ちゃまは大変出来たお方で、八尾は心の底から尊敬申し上げております」
――ボコボコボコォッ!!
「っふぇ!?」
それは予期せず起こった。
凄まじい勢いで湧き出た屁に、冬史郎の狂気に震える夏花の尻が抗えるわけがなかった
――バスンっ!
激しい破裂音が空気を震わせた。間違いなく自らの尻から感じた衝撃に、夏花は悲鳴すら上げることができなかった。
「~~~~~っ!!?」
「よくやった、夏花! っすううう、はあぁぁぁ……」
固まる夏花をよそに、冬史郎は嬉々として大きく深呼吸を繰り返し始めた。冬史郎が息を吸い、吐く度にげっそりこけていた頬に艶が戻り、みるみる美しい輪郭を取り戻していく。
「~~~~っ、はぁぁ……。ほら見ろ、八尾。一瞬にして呪いが浄化されたぞ」
「ほう、これは……」
干からびた野菜が水を吸って元に戻るように、元の姿に戻る冬史郎を八尾は興味深げに眺めていた。糸のように細い目も驚きに見開かれている。
「……はぁ。夏花、何度も言うが君の屁は極上だ。こんなに清らかな気分になれるだなんて、もう僕は君の側から離れられないな」
すっかり元の美青年に戻った冬史郎は、呆けている夏花に賛辞を贈ると、すぐに感心したように自分を眺めている八尾を睨みつけた。
「それはそうと八尾、僕の事をそう思っていたんだな。あんなにデカい屁が出たってことは、お前の偽りはそれほど大きいということか!?」
「おや? 八尾は坊ちゃまには隠し事はしていないつもりでしたが」
「お、お前は……っ!」
再び言い争いを始めた二人の姿を、夏花は信じられない思いで見つめていた。
(そうだ、これは夢。きっと夢よ。全部夢なんだわ。明日起きたらすっかり元通りになって、屁の事もご主人様の事も、全部知らなかったことになる……)
ぎゃあぎゃあ騒ぐ二人の声を聞きながら、夏花はようやく遠くなっていく意識に安心感すら覚えていたのだった。