4話
「“屁”でございますか。八尾は生きて長いですが、そんな話は初めて聞きました」
夕餉の後、再び冬史郎の元に呼び寄せられた夏花は、八尾の前で「屁」の秘密を泣く泣く暴露させられていた。
持ち場を離れ、しばらくして炊事場に戻った夏花に下働き仲間は皆文句ばかりだった。
「まあまあ皆、腹の具合なんて誰でも悪くなるじゃない。『漏らさないでいてくれて良かった』くらい思っておこうよ」
「巴ちゃん、ありがとう……。嬉しいけど、私漏らさないからね……」
夏花は庇ってくれた巴に礼を言いながら、腹の底から屁が湧いてこないことを改めて嬉しく感じていた。
(巴ちゃんは優しいな……。嘘言ったことないし、私のこと本当に心配してくれているんだよね)
「ほら夏花も。もう腹の調子が大丈夫なら早く仕事に戻ろう。気にしなくていいよ。他の子たちだって、さっきの本邸の女中さんたちに言われたことで、ちょっと浮かれて仕事してる気になってるだけなんだから」
「……うん。ありがとう」
ちゃきちゃき仕事をこなす、年頃も背丈もそう変わらない巴の背中を、夏花は眩しく見つめた。
(気遣いも出来る、仕事も出来て周りから信頼もされているし、何より気持ちを良くわかってくれる。本当に巴ちゃんって、仏様みたいな人だわ……)
――それなのに、だ。
「でも考えてみろ、夏花。君は存分に屁をこいて良いと言われているんだ。我慢しなくていいなんて、喜ばしいことだろ?」
同じ人間なのに、こうも気持ちの伝わらない相手がいることを夏花は今まで知らなかった。
冬史郎は隙あらば夏花に屁をこかせようとしてくる。それを拒んだ夏花に「全く理解できない」と言い放ったのだ。
「……あの、ご主人様。私にも『恥ずかしい』という気持ちがありまして――」
「なぜだ? 同じ人間なのだから、出るものは皆一緒だろうに?」
「坊ちゃま。夏花さんは年頃のお嬢さんですよ。あなたはそこまで説明しなければわからないのですか?」
冬史郎はなぜ八尾と夏花が難色を示すのか、心から疑問に感じているようだった。
(この人には人の心というものがないのかしら……)
夏花は八尾と言い争う冬史郎の横顔を見つめた。不気味だと思っていた彼の顔はすっかり美しい青年の姿になっている。
(そう言えば、なぜご主人様はあんな亡霊のようなやつれた姿になっていたのかしら?)
夏花の胸に湧いた疑問は、すぐに答えが出ることとなった。八尾に説教され続けていた冬史郎は、苛立ったように命じた。
「八尾、残りの食い物を持ってこい」
「坊ちゃま! 夏花さんの前ですよ――」
「うるさい。別に隠すものじゃないだろう。それに夏花のことばかり聞いて、僕のことも話さなければ不公平だろうが!」
そのやり取りを聞いた夏花は思わず聞き返してしまった。
「お食事はもう終えられているのでは……?」
そういえば実家隣のゲンさんも、晩年はしつこいほどお嫁さんに「ご飯はまだか」と聞いていたなと思い出していた夏花だったが、冬史郎の答えは異なるものだった。
「違う。僕がなぜやつれるか、そして君の屁が必要かということを説明してやる。八尾、早く持ってこい」
「……かしこまりました」
冬史郎の言葉に夏花は焦りと共にハッと八尾を見た。
(はっ! 待ってください、八尾様! ご、ご主人様と二人にしないでください~~っ!! また嘘ばかり口にされたら、私は屁をこかねばなりませんーっ!)
しかし夏花の心の叫びも空しく、八尾は目を伏せたまま、トン、と襖を締める軽い音と共に部屋を後にした。
(そ、そんな~!!? ど、どうしよう……。屁はもちろん心配だけど、それ以上に……)
夏花の焦りは最もだ。たとえそれが雇い先の主人だとしても、部屋に二人でいる場面を誰かに見られでもしたら、在りもしない勘違いをされかねない。それに往々にして使用人たちは噂が大好きなのだ。その噂好きのせいで、夏花はこれまで何度も腹を痛め、屁を我慢してきたのだ。
(お願い、誰も来ませんようにっ! 嘘ばっかりの噂を聞いて屁を我慢するのは大変なんだからっ! それ以上に私が話の中心になるだなんて、そんなの耐えられない――!)
夏花が誰も来ないようそわそわと願っている一方で、冬史郎は襖がしまったことを確認すると真面目な顔で口を開いた。
「いいか、夏花。丹羽家には昔から特別な力を授けられた人間が生まれるんだ」
「特別な、力……?」
冬史郎の言葉を繰り返した夏花に冬史郎は深く頷いた。夏花は無意識にごくりと唾を飲み込み、次の言葉を待った。先ほどまでの焦りなどすっかり吹っ飛んでいる。
「……そうだ。そして、その力は“呪い食い”と呼ばれている」
そう言って冬史郎は、蕎麦をすするような仕草をしてみせた。