3話
「うちの坊ちゃまが! 大変、大変、たいっ……へんっ! 失礼をいたしましたっ!!!」
夏花の目の前で畳に頭を擦りつけながら謝罪を繰り返すのは、丹羽家で家令を務める八尾だ。
夏花の手により(夏花の記憶にはないのだが)失神したらしい冬史郎は、その後探しに来た八尾の手により回収された。同時に連れて行かれた夏花は特に事情も聞かれず、今、八尾に一方的に謝られている。幸いにも冬史郎は大事ないようで、布団に静かに横になっていた。
八尾は糸のように細い目をカッと見開いて言った。
「他所様の大事なお嬢さんをお預かりしているのだから、雇い主として振る舞いには気を付けるようにと口を酸っぱくして言っておりましたのに……。このおバカな坊ちゃまは……謝って済むものではないと存じておりますが、本当に申し訳ございませんでした」
「い、いいえ。私は何もされていない……わけではないけれど大丈夫です。むしろ、私の方こそ申し訳ありませんでした。……どんな罰でも受ける覚悟です」
自分の罪を実感し始めた夏花の声は段々小さくなっていった。
(まったく覚えていないとはいえ、状況的に私の拳がご主人様の顔のど真ん中にめり込んだのは間違いなさそう……。主人に手を上げるなんて、私このまま捕まってしまってもおかしくないわね。さようなら、父ちゃん母ちゃん……)
心の中で別れの言葉を呟いた夏花が顔を上げると、目の前の八尾がフルフルと震えている様子が視界に飛び込んで来た。
「なななななんとお優しい!! 罰など、そんなものこのクソ坊ちゃまに与えれば良いのです!」
激しい八尾の言葉に夏花の腹が反応することはなかった。主人を前に少々問題の有りそうな発言だったが、本心からの言葉に夏花は少なからず安心した。
八尾は深くため息をつきながら冬史郎に視線を向けた。それにつられて夏花も冬史郎の顔をまじまじと見つめた。
(鼻に紙が詰められているけど、それでもきれいな顔……。でもどうしてあの一瞬で? 『屁が清らか』って言っていたけど、それってどういうことなんだろう――)
夏花がぼんやりしていると、同じように冬史郎の顔を見つめていた八尾が口を開いた。
「しかし坊ちゃまのご様子、見違えるようですね。確か今日は大物をお召し上がりになっていましたし、艶子様もお見えになっていてひどくやつれていたはずです……」
「そ、それは――」
八尾の発した言葉は、夏花が冬史郎の身に起きた出来事を知っていると確信しているものだった。夏花の動揺を見逃さないとばかりに、八尾の糸のような目の奥がギラっと光った。
「夏花さん、坊ちゃまに何があったのですか……?」
八尾の声を聞くと同時に夏花の背筋にひどい悪寒が走り、膝の上で握りしめた手が勝手に震えだした。同じように震える唇が勝手に開いていくことに、夏花は必死で抗っていた。
(怖い…。ご主人様も八尾様も怖い。それに私の身体どうしちゃったの……。気を抜いたら『私の屁が原因です』って言っちゃいそう。お願い、どうかこれ以上恥を晒すことはしたくないっ――)
勝手に開いていく唇を必死で抑える夏花の姿に、八尾はピクリと眉を動かした。だがそれも一瞬の出来事で、八尾の目の奥がさらに鋭く光ると、夏花の抵抗はあっけなく崩れていった。
「わ、私――」
「“屁”だ」
夏花の震える声が全てを語る前に、一言で事情を説明してしまった者がいた。
(あ、口が閉じる!)
その声で唇に自由が戻った夏花は慌てて一文字に噤んだ。
八尾と夏花が弾かれたように声のした方向を見ると、そこには布団の上に起き上がっている冬史郎の姿があった。
鼻血止めの詰め物をスポンと抜いた冬史郎は、これでもかというほど真面目な顔をして言った。
「夏花の屁は極上なんだ」
「坊ちゃま!」
「ご、ご主人様……」
驚いた八尾の声と悲鳴に近い夏花の声が重なる。さらに冬史郎はバッと布団の上に立つと、八尾の前に仁王立ちになり得意気に告げたのだ。
「八尾、見ろ。夏花の屁を吸ったらこの通りだ!」
「『屁を吸ったら』? 夏花さんの“屁”を? 吸ったのですか、坊ちゃまが……?」
八尾の視線は冬史郎と、そして顔を真っ赤にして俯く夏花をせわしなく行き来した。夏花は最後の抵抗とばかりに首を横に振ってみせた。
(お願いします。その辺で止めてください。私まで、そういう趣味があると思われてしまいます――!)
だがそんな夏花の願いむなしく、冬史郎はさも当たり前のように八尾に応えたのだった。
「そうだが?」
(お、終わった……。私は奉公先の主人に手を上げただけでなく、屁を嗅がせた頭のおかしな娘になってしまった……)
冬史郎の発言に、八尾はあんぐりと口を開き、何の言葉も出て来ないようだった。だが徐々に八尾のこめかみに青筋が浮かび始め、薄い唇がわななき始めた。そして火山が噴火するように八尾は爆発した。
「は……は、八尾は坊ちゃまをそんな物狂いに育てた覚えはございませんっ!!! これでは深雪様に顔が立ちませんっ。坊ちゃま、そこにお直りなさい! 八尾が責任を持ってその性根、叩き直して差し上げますっ」
「“屁”だぞ? 誰でもこくだろう。どうせ消えてしまうものを吸って何が悪い!」
仁王立ちになっている冬史郎の前に立った八尾は、唾を飛ばしながら自らの主人を激しく怒鳴りつけた。
だが冬史郎も八尾の勢いに負けていない。自らの主張がいかに正しいか八尾に示すべく、爽やかな笑顔で夏花を振り返って言った。
「ほら夏花。頼む、もう一度屁をこいてくれ。八尾にも嗅がせ、君の屁の素晴らしさをわからせてやらねば」
「ああああぁぁっ!!!? 八尾は恥ずかしゅうございますっ――!」
ギャアギャアと言い争いをする二人の声も、段々と夏花にははるか遠くの出来事のように聞こえてはじめていた。
(今すぐ消えてしまいたい……。そうだ、無。無になるの。何も考えたらだめ。ほら、夏花思い出して。隣のゲンさんのお葬式の時のお経よ。和尚様の独特な節回しに思わず噴き出しそうになったけど、無の心で乗り切ったでしょ?)
「ああっ! 夏花さんが無になっておられる!? 夏花さん、どうかこちらの世界に戻って来てくださいっ!」
「夏花、しっかりしろ! 君がいなくなったら誰の屁を嗅げばいいんだ!?」
二人の言い争いが終わり、夏花の意識がゲンさんの葬式の記憶から戻ってくる頃には既に日が傾き始めていたのだった。