24話
八尾が部屋に戻ると、冬史郎は夏花から取り上げた櫛を前にぼんやりと座っていた。一見可愛らしい櫛からは、おどろおどろしい邪気が絶え間なく漏れ出ている。巴が残したという櫛は深く呪われていたのだ。
(友と思っていた相手から渡されたものが、蓋を開けたら呪いの品だったなんて……。つい教えてしまいましたが、夏花さんは傷ついたでしょうね)
横目で櫛を見ながら、八尾は冬史郎の側に腰を下ろした。だが冬史郎は八尾を見もせず、独り言のように呟いた。
「夏花は出て行ったか」
「おやまあ、追い出した使用人のことなど気になさるお方でしたか。はい、ちゃんと出て行かれましたよ。給金も渡してあります」
「……そうか」
どう見ても落ち込んでいる冬史郎の姿に、八尾はむずむずする口元を懸命に抑えていた。
冬史郎は置かれた立場のせいか、どこか気持ちが人より幼い。自分を取り繕うことが出来ず、良く言えば素直なのだ。
(悪く言えば、馬鹿正直、でしょうかね。そんなに落ち込むなら止めればよかったでしょうに。そんなところまで母親に似なくても良かったのですけどね)
こみ上げる笑いを飲み込み、八尾は冬史郎に声をかけた。
「以前の状態に戻っただけです。明日からまた以前のように静かに過ごせますよ」
「ああ、そうだな……」
「まあまあ、そんなに気落ちなさって。少し変わった屁をこく娘というだけだったでしょう?」
夏花のことに冬史郎が触れられたくないことはわかっていた。しかし八尾には耐えきれなかった。つい嫌がる部分に触れてしまうのは、八尾の昔からの悪い癖だ。案の定、冬史郎は怒りをはじけさせた。
「――お前に何がわかる! 屁だけだと! ふざけるな、もとはと言えばお前が艶子の侵入に気づかなかったせいだろう!」
「八つ当たりはおやめください、坊ちゃま。深雪様はそのように八尾に当たったりしませんでしたよ」
口元にうっすら笑みを浮かべ、八尾は深雪の名を出した。その名を聞くなり、頭に血が上った冬史郎の顔色が変わる。
(まったく、わかりやすい坊ちゃまでいらっしゃいますこと。深雪様とは違う、そんなところも面白いところではありますけど……)
八尾は表情の消えた冬史郎を見ながら、彼とは正反対だった彼の母を思い出していた。彼女は自分を隠すのが上手だった。
「艶子さんの事では大層お荒れになりましたが、今の坊ちゃまのように表に出すことなく、立派なお方でした」
「……止めろ。その名前は聞きたくない」
とうとう冬史郎の火が消えた。心を閉ざし、瞳を曇らせた冬史郎の横顔は儚げで美しい。
(おっと、我ながら大人げなく意地の悪いことをしてしまいましたね……)
冬史郎が艶子を拒絶する理由はここにある。
(巧妙に隠していても艶子さんへの嫉妬は消えなかった。身を焦がす嫉妬は呪いで力を失っていた身体には猛毒でした……)
心身ともに弱っていた深雪は、呪いを食おうとする冬史郎を庇って命を落とした――とされている。
(その時の呪いの品も、この櫛のように女性の怨恨にまつわるものでしたっけ。回復を待たねば呪い食いはできないとわかっていたにも関わらず、深雪様は誰もいない間にこっそりと……)
八尾が気づいた時にはもう遅かった。冬史郎に任されていたはずの呪いの品は、深雪の手元に転がっていた。
(女の情念を幼い冬史郎様に触れさせたくなかったのか、それとも――)
今となっては深雪の真意はわからない。人間など、死んでしまえばそれでおしまいだ。
(まあ、それだから人間は面白い。今を生きる坊ちゃまが懸命に藻掻く姿は八尾の宝物ですよ)
冬史郎はあまりにも可愛らしく、からかいたくなってしまう。だが一方で八尾は彼の努力が実ればいいとも思っている。だからつい、もつれた糸の端っこを手渡してしまうのだ。
「夏花さんには正直にお伝えすればよかったですね。なのに坊ちゃまは、自分がどれほど夏花さんに助けられているかということだけお伝えになるから」
八尾の言葉に俯いていた冬史郎の肩がピクリと動く。
「それでは役に立つ道具と同じだ、と言っているようなものでしょう」
「……うるさい。僕はずっと正直に伝えていた。夏花が聞く耳を持たなかっただけだ」
「それならば、その言葉が聞こえないほど心を閉ざしていたのでしょう。そうしなければ心を守れないほど、夏花さんは傷ついてきたのでしょうね」
そう告げると、冬史郎がハッと顔を上げた。どこか打ちひしがれたような表情はかつての深雪によく似ている。
「なら、僕も夏花を傷つけたというのか?」
「……さあ、どうだか」
八尾はそれ以上答えるつもりはなかった。澄ました顔をしていると、再び俯いてしまった冬史郎が絞り出すように呟いた。
「僕は、どうすればよかったんだ……」
「さあ。八尾にはわかりかねます」
やり取りは終わりだ。八尾はスッと立ち上がると、部屋を出ようと障子に手をかけた。そして「ああ」と思い出したように、冬史郎に声をかけた。先ほど夏花にしたように――。
「ああそうだ、坊ちゃまはお気をつけくださいね。揺れる心が一番の毒ですよ……深雪様がそうだったように、ね」
だが冬史郎は八尾を見ようとはしなかった。彼の落ちた視線は、ちいさな櫛に向けられていた。
§
すっかり陽が暮れ、辺りを夜の空気が覆い始めた。果てしなく長い塀に囲まれたその屋敷は、周辺のものと比べても群を抜いて大きい。
「ここね……『丹羽本邸』は。というか、広すぎない……?」
風呂敷包みを担ぎながら、夏花は思わず呟いた。目の前には立派な瓦屋根のついた門がドドンとそびえたっている。冬史郎の住む別邸がかわいらしく思えるほどの存在感に、夏花は圧倒されそうになっていた。
だが夏花とて、目的もなく本邸を訪ねたわけではない。
(一度、巴ちゃんにあって話をしないと。本当のことを私も正直に話さないと……)
夏花は腹に力を込め、ふんっと勢いよく鼻息を噴き出した。
「しっかりしなさい、夏花! こんなところで時間を無駄にしていられないわ。いざっ!」
風呂敷の結び目をぎゅっと握りしめ、夏花は一歩を踏み出した。




