23話
「夏花さん……」
私物を乱暴に風呂敷に包む夏花は、八尾の呼びかけに答えなかった。冬史郎の部屋を後にし、自室に戻ってくるまでの間に何人かの女中とすれ違ったが、誰しもが夏花の表情を見るなりぎょっとし、目を逸らした。
それほど夏花は怒っていた。
(ご主人様は人の気を知ろうともしない。嘘をついてばっかりで、ただ自分勝手なだけのお坊ちゃま。どれだけ特別な力があるからって、他人を蔑ろにしていいわけない。それに、巴ちゃんからもらった櫛だって……)
再び目に滲む涙を袖で強引に拭うと、夏花は風呂敷の口を力いっぱい結んだ。
「お世話になりました」
「夏花さん」
真っ赤な目と鼻のまま八尾を見ると、眉を寄せた八尾と目が合う。
「坊ちゃまは夏花さんを艶子さんに奪われるのが怖かっただけなのです。今の坊ちゃまには夏花さんほど大事な方はいらっしゃいません」
「はっ?」
乾いた声が出た。
(『大事な方』ですって? 本気で言ってるの? それならどうして私の話を聞いてくれないのよ)
思わず笑ってしまうような八尾の言葉に、再び怒りがこみ上げる。
「奪われるのが怖いなら、なぜ奪おうとするのですか?」
「……それは」
「ご主人様は自分がされて嫌なことは、人にしてはいけませんと習わなかったのですか!」
夏花は八尾にぶつけるように叫んだ。
「確かにここに来て、ご主人様に出会ったことで楽しいこともありました。屁っこきな自分を認められたような気がして、嬉しくて……。でも、それなのに! 全部ご主人様が奪っていったじゃないですか!」
「夏花さん……」
冬史郎に出会い、確かに楽しいこともあった。屁をこいてしまう自分を認められたような気がして嬉しく感じた時もあった。しかし夏花の生活は大きく変わった。
「父ちゃんも母ちゃんも喜んで送り出してくれたのに。巴ちゃんだって、ちゃんと話せばわかってくれたかもしれない。なのに、全部――」
「全部、何ですか?」
八尾の声が聞こえた途端、すうっと部屋の温度が下がる。夏花が気づいた時には、それまで気づかわしげだった八尾の表情は消えていた。何の感情もこもっていない鋭い視線が夏花を突き刺す。
「あ、ぁ……」
何か言おうとしても口が動かない。手も足もまるで縫い留められたように動かなかった。
「申し訳ございませんが、私は坊ちゃまにお仕えする身。それ以上、坊ちゃまを貶す言葉を聞くわけにはいきません」
淡々と語る八尾の細い目がきゅっと持ち上がる。
「坊ちゃまは確かに自分勝手で、幼い。しかし唯一無二のお力を持つ方ゆえ、孤独に生きてきた方です。特殊な体質のあなたなら、坊ちゃまをご理解いただけると思ったのですが。はぁ……残念なことです」
「――っ、う、動く?」
残念そうに八尾がため息をつくと、夏花の身体が自由を取り戻す。その様子を見届け、八尾は部屋の障子を開いた。外に出ようと半身踏み出したところで、思い出したように夏花を振り返った。
「彼女、巴さんは艶子さんの元におりますよ」
「え?」
聞き返した夏花に、八尾は相変わらず表情を消したまま答える。
「出て行ったわけではありません、本邸に引き抜かれたのです」
「でも、手紙には『郷に帰る』と書いてあったと……」
「ああ、あれですか」
確かに手紙にはそう書いてあったらしい。他の使用人たちが語った話に嘘はなかったはずだ。だが八尾はそこでようやく表情を変えた。その顔に浮かぶ笑みは嘲笑だった。
「手紙など書ける人間が、この屋敷の下働きにどれほどいるでしょうかねぇ。そんな中で彼女が布団に置いていったという大層達筆な手紙……ふふ、とても面白いものでしたよ」
「それって……」
八尾の言葉の意味を察せないほど、夏花は鈍くない。まさか巴がそんな真似をするわけない。しかし八尾もまた嘘をついていないようだ。
「夏花さん。あなたに一つ教えてあげましょう。他人のあらは目立つものですが、自分のあらには気づきづらい。夏花さん、あなたは自分の苦しみをわかってもらいたかった。しかし坊ちゃまを少しでも理解しようとしましたか?」
「――っ!」
(私がご主人様を理解しようとしたか、ですって……? そんなこと、そんな当たり前でしょう。でも、もしかしたら――)
考えれば考えるほど、夏花の頭の中は混乱の渦に飲み込まれていく。冬史郎のことを理解しようとしていたつもりだった。しかし、実際はどうだったのだろうか。
絶句する夏花を横目で見た八尾は、憐れむように首を僅かに傾げた。
「そうだ最後に。あの櫛、手放して正解でしたよ。理由は……ああ、出て行くあなたにお伝えする義理はありませんね」
そう言い残し、八尾は部屋を去って行った。開け放たれたままの障子が、もうこの屋敷は夏花の居場所ではなくなったと告げているようだった。




