22話
この時間に夏花が部屋を訪ねるのは、朝食を運ぶときだけだ。だからこんなふうに何も持たずにやって来るのは珍しい。しかし冬史郎は夏花が朝食も持たずに、血相を変えて現れても平然としていた。
そのことがなおさら癪に障ったのだ。
「なぜ巴ちゃんを追い出したりしたのですかっ?!」
「僕は追い出したりなどしていない」
掴みかからんばかりの勢いで憤る夏花に対し、冬史郎は澄ました顔で座っている。
「嘘つき! ご主人様がお命じにならなければ巴ちゃんは出て行ったりしないはずです」
「少し落ち着け。僕は彼女に何も言っていない」
「しらばっくれるのはやめてください! ならどうして、巴ちゃんが郷に帰るんですか?!」
最後には涙交じりの叫びだった。夏花には冬史郎が嘘をついていないことはわかっている。屁が湧いてこないからだ。
しかしそれでも冬史郎を責めずにはいられなかった。やり場のない怒りと空しさが溢れて止まらない。
「ひどいひどいひどい! 奥様との事はご主人様だけの問題じゃないですか。なのにどうして私を、巴ちゃんを巻き込むんですか?!」
「夏花、人の話を聞け」
「嫌ですっ!」
「聞くんだっ!!」
冬史郎の怒鳴り声に夏花はビクッと肩を震わせた。
少しまでの冬史郎だったら、夏花の怒りも流されていたかもしれない。しかし今は状況が悪かった。自分の縄張りに艶子の侵入を許してしまったことで、冬史郎の気は高ぶっていたのだ。
「……僕は出て行けとも言っていないし、そもそも彼女と話してもいない。いったい誰がそんなことを言っているんだ?」
「誰って……みんなです。屋敷のみんながそう言っています」
「みんなとは具体的には誰だ」
「それは……」
そう問われても答えようがない。女中たちが話していたことなのだ。
(誰って聞かれても、私が答えた所でどうなるの? 名前を上げた人にご主人様が問い質せば、また私が責められることになるだけ……)
言葉に詰まってしまった夏花に冬史郎のため息が刺さる。
「はぁ……くだらない話だ。どうして彼女にこだわるんだ? もう一度言うが、彼女が出て行ったのは僕が命じたことじゃない。そして君のせいでもない。大方、使用人たちから『お前のせいだ』とでも責められたのだろう?」
「――っ!」
冬史郎の言葉が核心を突く。夏花の顔色が変わったことに気づいたのだろう、再び深いため息が漏れた。
「まったく……僕は夏花にいてもらわないと困ると言っただろう。夏花が僕に反感を抱くような真似するわけないと、少し考えればわかるじゃないか」
「で、でも――」
「彼女は勝手に出て行ったんだ。無責任なことにな」
――無責任?
夏花は耳を疑った。あの責任感が強く、真面目に仕事をこなす巴が無責任だというのだろうか。
「本当に迷惑な話だ。これが誘い水になって、皆出て行くと言い出したらどうするんだ。しょうもないことで騒がないでくれ」
――しょうもないこと?
大切な友人との仲がこじれた上に、二度と会えないかもしれないのに別れの言葉も伝えられなかったことが、しょうもないこと?
「しょうもなくなんてありません!」
今度は冬史郎がびくりと肩を揺らす番だった。顔を真っ赤にした夏花は気づけば涙をぼろぼろと流していた。
「巴ちゃんは私にとっては大切な人だったんです! 周りの人たちとももっとうまくやりたいのに、ご主人様はどうしてそんなに自分勝手なんですか!?」
叫び終わった夏花はふうふうと肩で息をつくほど興奮していた。唖然としている冬史郎の顔に腹の虫がおさまらず、夏花はさらに続けた。
「自分が良ければ他のことは何でもいいなんて、自分勝手以外の何ものでもありません! 私、もう嫌です! こんな思いをするくらいなら断ってしまえばよかった……。ご主人様も身体がつらいのが嫌なら、もう“呪い食い”なんてやめてしまえば――」
「黙れ……」
地を這うような低い声だった。冬史郎から発せられたとはにわかには信じがたい声に、涙はぴたりと止まり、夏花は息を飲んだ。
「僕の生きている意味を手放せというのか?」
「……え?」
冬史郎の顔から表情が消えている。美しいがゆえに恐ろしい無表情が夏花に向けられる。不意に冬史郎が八尾の名を呼んだ。
「八尾」
「……はい」
突然背後から聞こえた声に、夏花は弾かれたように振り向いた。そこには気づかわしげに夏花に目を向ける八尾がいたのだ。
「夏花に金を渡して帰らせろ。今すぐにだ」
「そんな……っ」
「ははは、喜べ。ようやく僕から離れられるぞ」
「坊ちゃま! 夏花さんはそのような意味で言っているのでは――」
「口を慎め、八尾。お前の主人は誰だ」
冬史郎の有無を言わせぬ問いに、八尾が苦しそうに眉を寄せた。
「……冬史郎様です」
絞り出すような八尾の返答に、冬史郎は鼻を鳴らし、二人に背を向けた。
「フン、わかっているならすぐに動け。もう、全部面倒になった。後は僕一人でやる」
――ポコっ
(あっ。屁が……)
腹の中で空気が動く。
冬史郎の言葉は本心ではない。彼の言葉が嘘だと知ってしまったせいだろうか、いつもよりも頼りなげに見える冬史郎の背中をジッと見ていると、冬史郎が再び怒鳴り声を上げる。
「いつまで何をしている! 下がれと言っているだろう!」
「夏花さん、行きましょう」
八尾は夏花の肩を押し、部屋から出るよう促した。冬史郎の怒鳴り声が聞こえていたのだろう。廊下に出るとあちらこちらから好奇に満ちた視線を感じる。
自分の足袋のつま先だけ見ていた夏花を、ふいに冬史郎が呼び止めた。
「……夏花」
返事もせず振り返ると、冬史郎もまた、こちらを見ずに背中を向けたまま語り掛けていた。
「袂の櫛は置いていけ。そのような上等なもの、お前には相応しくない」
袂の櫛――それは巴が自分に残してくれた櫛のことだった。




