21話
屋敷の主人の朝食は側付きの女中が部屋に運ぶことになっている。
その日も夏花は炊事場に向かっていたが、足を踏み入れようとした時にいつもとは違う調子の噂話が耳に飛び込んで来た。
「え、追い出されたの? いい子だったじゃない……」
「本当にねぇ、かわいそうよ……。それに引き換えあの子、ご主人様に気に入られたからってすっかり我が物顔で振舞っちゃって」
声を潜めるつもりもないらしい女中たちがあちらこちらで固まって話している。
(追い出されたって誰の話? 『ご主人様に気に入られた』っていうのはきっと私の事だけど、誰かが追い出されたなんて聞いてない……)
夏花は壁に身体を寄せ、息を潜めて話の続きを待った。自分が話題に上がっている噂話に自ら飛び込んでいく程の度胸もないし、正直に話してくれるかもわからない。屁を生むかもしれない危険地帯に入り込むのは得策ではないのだ。
案の定女中たちは話を終わらせるわけもなく、夏花の存在に気づかぬまま話し続けた。
「奥様が来た日もあの子が虐めていたって聞いたわ。奥様は止めに入ったのにご主人様は逆に叱りつけたとか。ああ嫌だわ……」
「そういえばこの前もあの子を呼びに行くって出て行ったあと、沈んだ顔で戻って来たわよ。何か言われたのかもしれないわ」
「このままだとあることない事告げ口されて、私たちまで暇を出されちゃうかも……そうなる前にどうにかしないと」
相変わらず気配を消して壁にくっつきながら、夏花は断片的に入って来る情報を繋ぎ合わせ、全ての話題に共通する人物の顔を思い浮かべた。
「もしかして、巴ちゃん……?」
思わずこぼれた呟きに一瞬にして周囲に静寂が走る。「あ」と思う間もなく、夏花に一斉に視線が刺さった。向けられた眼差しに息が詰まりそうになりながら、夏花は震える唇を開いた。
「あ……、あの今の話って……」
「あなたがお命じになったことでしょう? 白々しい」
ぴしゃりと言い放ったのは一番夏花の近くにいる女中だった。
「ご主人様に気に入られているからといって、傍若無人が過ぎます。あの子が何をしたって言うんですか? 少なくともあなたより、よっぽど私たちは頼りにしておりましたよ」
「虐めるだけで飽き足らず、追い出すとは……よほどご主人様の側付きになって嬉しいのでしょうね。何を言って追い出したのかわからないけれど、嘘つきもいいところだわ」
「そんな、私……っ!」
だが夏花がどれだけ反論しようとも夏花の言葉を信じる者などいない。
女中たちは次々と夏花を非難し、冷たい視線を向けたまま炊事場を去って行った。炊事場に残ったかつての仲間たちは、土間に下りて水仕事をしながら見て見ぬふりをしている。その無言の背中からは女中たち同様に、夏花への憤りが感じられる。
(私、嘘なんかついていない……)
いくら嘘をついていないと言えど、その事を証明する手立てはない。「嘘は屁でわかる」と夏花が言ったところで誰が信じるだろうか。
ただ一人、信じた人間はいたが……。
夏花は板の間に二つ並んで残されたお膳に視線を向けた。冬史郎と夏花の分だ。盛られた料理はすでに冷め、湯気も立たなくなっている。
(ご主人様に屁の事が知られなかったら、こんな思いをすることもなかった。そもそも、嘘で屁が出るなんて体質が無かったら……)
女中や下働きは主人の前に朝食を済ませてしまう。
これまでは夏花も仲間たちと一緒に食事をとっていた。嘘まみれの噂話に悩まされてはいたが、今はその時間すらも夢のように感じる。
「なあ」
「――はいっ?」
突然かけられた声に、ぼうっと立ちすくんでいた夏花の肩が跳ねる。声をかけたのは土間にいた下働きの一人だ。
「これ、巴から預かってた。あんたに渡してくれってさ。あんたどうして、追い出したりしたんだい。本当にいい子だったのに……」
土間から伸ばされた手の中には何かが包まれた手巾が握られていた。夏花がそれを受け取ると、彼女は再び背を向けた。
「あ、りがとうございます……」
おそるおそる受け取った手巾を開くとそこには紅色の櫛が入っていた。
不思議な体質を隠し、心を閉ざしていた夏花にとって、丹羽家に来てから出会った巴は大切な友人だったのだ。
冬史郎へ思いを寄せていた巴はきっと夏花と冬史郎の関係を勘違いしたのだ。話せばわかると思っていたが、その機会は得られなかった。
(私が勇気を出して、屁の秘密を明かしていれば巴ちゃんは出て行かずに済んだ……。まだ、巴ちゃんと友達でいられたかもしれない。全部、私が――)
「私……ちょっと聞いてきます。ご主人様に、何があったか聞いてこないと!」
夏花は慌ただしく炊事場を飛び出した。
その声に驚いて土間にいる全員が振り向いたものの、その時には既に夏花の姿は消え、板の間に二人分のお膳が残されているだけだった。




