20話(冬史郎視点)
冬史郎の記憶の中におぼろげに残っている母は、冬の山で辛うじて倒れずにいる枯れ木のような姿だ。
母・深雪は冬史郎の前でいつも笑っていた。“呪い食い”のせいで身体がつらいはずなのに、艶子が利冬に近づいているのも知って傷ついているはずなのに――深雪は冬史郎の前で弱音を吐くことは無かった。
最期の瞬間も深雪は笑っていた。
もう身体がぼろぼろだったにも関わらず、冬史郎が食べるはずだった仕事を引き受けたのだ。
(『あなたが無事でよかった』と母様は言った。でもつらいのにつらいと言わない、嘘つきな母様の事だ。本当は終わらせたかったんだろう、全部……)
冬史郎は静かに瞼を持ち上げた。
見慣れた天井、障子の隙間から差し込む光は朝が来たことを告げている。長く続いた雨が止み、久しぶりの太陽だ。
「……坊ちゃま、八尾です。お目覚めになりましたか?」
「今起きた。朝っぱらからなんだ」
天井を見上げたまま冬史郎は答えた。八尾が冬史郎の目覚めを待って声をかける時は、大抵の場合急ぎの厄介事が持ち込まれる。だからといって起き上がる気になれず、冬史郎は横になったまま八尾の次の言葉を待った。
「あの下働きが『夏花様への無礼を咎められ、暇を出されたので郷に帰る』といった内容の置手紙を残し、姿を消したそうです」
「あの……? ああ、彼女か。暇を出した覚えなどないが」
「はい、私もございません」
冬史郎は八尾がなぜ急ぎ、自分の元に伝えに来たか合点がいった。八尾が語る「あの下働き」というのは巴のことだ。
巴にはあの日以来冬史郎は会っていないし、何も言っていない。にも関わらず「夏花のせいで丹羽家の仕事を辞めさせられた」というのは辻褄があわない。
つまり巴は冬史郎と夏花のせいで辞めざるを得なくなったと書き残し、丹羽家を自ら去ったのだ。
「他の者は知っているのか」
「徐々に広まっていると思います。朝、同室の者が『彼女の布団に置いてあった』と慌てて持ってきたので、きっと文字の読める者だったのでしょう。彼女がそのまま触れ回っていれば、きっと……」
障子の向こうでかさりと紙が擦れる音がした。八尾が巴の置手紙を取り出したのだろう。
「なかなかの達筆ですよ。ご覧になりますか?」
「僕は見なくていい。……ふん、小賢しい手を使うものだ。八尾、彼女の郷に使いを出せ。彼女がいてもいなくても金を渡して来るんだ。もし家に戻ったらそのまま大人しく暮らせ、と言ってな」
「……かしこまりました」
きっとこの置手紙は艶子が準備したものだろう。以前、夏花に艶子を引き合わせたのも巴だ。二人が通じているのは明らかなのだ。
「おおよそ字の書けない彼女の代わりに艶子が持たせたんだろうな。彼女は評判が良かったから、追い出されたことにして、僕たちに使用人たちが反感を持つよう仕向けたつもりだろう。そうだ、向こうの家にも使いを出して『丹羽家の下働きが世話になる』とでも伝えるか」
苛立ちが高じて饒舌になる冬史郎の話を、八尾は黙って聞いていた。
「それと、どうせこの前の仕返しだろうな。継母上様の鼻っ柱は見事に折れて吹き飛んでしまったようだ。夏花が良くやってくれたおかげだ」
冬史郎は乾いた笑いを零した。
冬史郎とて、旧家の跡取りとして育てられてきたのだ。表の行動に隠された魂胆を見抜く力くらい持っている。
きっと艶子は自分の意見が通らなかった腹いせに、丹羽家と夏花に傷をつけたいのだ。
――丹羽家には「使用人をぞんざいに扱う」という汚名を。
――夏花には「友人が自分のせいで追い出される」という傷を。
(夏花と僕を孤立させたいようだな。何を考えているのか、訳の分からないことをするものだ……)
冬史郎が苦々しく思いながら天井を見上げていると、八尾は一段声を潜めてから問いかけてきた。
「坊ちゃま、夏花様にはどうお伝えしましょうか」
「夏花? ああ、そうだな……」
冬史郎はそこでようやくむくりと身体を起こした。夏花の屁の効果を得るまでは、この勢いで身体を起こしたら眩暈で再び布団に倒れ込んでいたはずだ。
憎悪の煮凝りのような呪いをも浄化する強力な屁を生み出すわりに、夏花の心は硝子のように繊細なようだ。
(もうこの健康な身体を手放すなんて考えられない。だがこの一件で夏花の気が変わり『この家にもういられない』とでも言い出したら――)
冬史郎はそこまで考えて朝方の夢で出会った深雪を思い出した。枯れ果てた笑顔が痛々しく冬史郎に向けられる。
「夏花には聞かれるまで言わなくていい。聞かれたら手紙の内容だけ教えろ。どうせ彼女の嘘は夏花にはわかるんだ。夏花には何が真実か、何が嘘かを見抜く力があるだろう」
冬史郎は足元に布団を蹴とばした。部屋に差し込む日差しは徐々に強さを増し、夏の訪れが間もなくだと伝えている。
八尾は冬史郎の言葉を黙って聞いていた。その沈黙が何を意味するのか、この時の冬史郎は知る由もなかった。




