2話
夏花の屁の頻度を増す「ある事」というのは「嘘」である。誰かの嘘を見聞きすると、腹の奥で「ポコッ」と屁が湧き出るのだ。
この日は珍しく艶子の来訪があった。どうやら冬史郎に見合い話を持ってきたらしい。それだけなら夏花を含む下働きには「どうぞご勝手に」で済む話だった。だが艶子の連れてきた女中たちが曲者だったのだ。
「失礼いたしますよ。あら、皆さま素晴らしい働きぶりでいらっしゃいますこと」
「まあまあ、本当! 先ほどの廊下の掃除も良く行き届いておりましたが、こちらの炊事場も整っておりますのね」
突然、炊事場に現れた女性たちが大げさな声を上げた。
「……ねえ、あれ誰?」
大げさに誉めまくる女性を訝し気に見ながら、夏花は女中仲間の巴にだけ聞こえる声で尋ねた。
「本家の女中さんよ。ほら、今日奥様が来てるって言ってたじゃない」
「ああ、そういえば……」
夏花は彼女たちを視線だけで追った。
(突然やって来て何の用? はっきり言って邪魔なんだけど。それに……)
女性たち身なりこそ女中だったが、その仕草や話ぶりは夏花の実家隣に住む嫌味なお姑さんと小姑さんを思い出させた。
「そういえば通されたお座敷のお花も素晴らしいわ。なんというか素朴で、こちらのお屋敷にはぴったり……ふふ」
「そうね、この別邸にはぴったりだったわね。炊事場の雰囲気も和気あいあいとして羨ましいことですね。本邸では皆、神経をとがらせているから怖くって……」
「本当、皆さん仲がよろしいのね。奥様もきっと感心なさるわぁ」
女中たちの声は炊事場に響き渡った。きっと外で作業している使用人たちにも聞こえていただろう。
皆、突然褒められ始めたことに訝しがっていたものの、褒められて悪い気はしないのが人間だ。彼女たちの言葉に次第に口元を緩めていた。
(ちょ、ちょっと、どうしてあれで喜べるの? ――っ、あいたたた……)
だが夏花は違った。彼女たちが言葉を発する度に次から次へと腹の底から湧いてくる屁に冷や汗が止まらなかった。その結果夏花は持ち場を抜け出し、冬史郎に出くわしてしまったわけなのだが……。
つまるところ女中たちの言葉は全て「嘘」だったのだ。
彼女たちは由緒正しい丹羽家の本邸で選ばれた“優れた女中”だと自負している。そして冬史郎のいるこの屋敷は別邸。別邸で働いている使用人を馬鹿にしていることを悟られないよう褒めそやかしているだけで、きっと本邸に戻って嘲り笑うのだろう。
嘘を見聞きすると屁が増す、それはつまり「嘘がわかってしまう」ということでもある。
(嘘がわかって良いこともあるけど、皆があの人たちのついた嘘で喜んでいる姿を一体どういう気持ちで見てたらいいのよ! モヤモヤしたままのこっちの身にもなってほしいわ。でもそれを言えない私も同罪だし……。はぁ、こんな体なんていらないわ……)
知らなくて良いことまでわかってしまうのは良いこともあるが、辛いことの方が割合として多い。本邸の女中からの褒め言葉に喜んでいる仲間たちの顔をどんな気持ちで見たら良かったのか……。知らなくてもいい嘘に気づいてしまう夏花はそれを心の中に押し留める苦しさと、誰にも本当の事を伝えることが出来ない自分の薄情さに苦しんでいた。
「嘘か……」
夏花は冬史郎の呟きにハッとした。夏花の体質は家族しか知らない。そもそも信じがたい内容だ。
(言ってしまった……。でもこんなの嘘みたいな話だし、どうせ頭のおかしい女だと追い出されるんだ。父ちゃん母ちゃん、こんな屁っこき娘でごめんなさい……)
夏花はツンと熱くなってきた鼻を隠すように足下に視線を落とした。
「『僕は丹羽冬史郎じゃない』」
「……っ?」
――ポコ
わずかに夏花の腹の中で空気が動いた。驚いて視線を上げると、冬史郎がじっと夏花を見つめていた。
「どう? 嘘ついてみたけど」
「え? あ、もっとです」
「えーっと、じゃあ『僕は女だ』」
――ポコ、ポコ
冬史郎は神妙な面持ちで夏花の様子を伺っている。どうやら夏花の話を信じてくれたらしい。夏花はじんわりとした嬉しさを感じつつ、無意識に強まる尻の力に徐々に冷静さを取り戻していた。
(こ、これはどうやっても屁をこかせようとしている感じでは……。なんで屁を……、はっ! ご、ご主人様はもしかして、そういうご趣味の……っ、てどういう趣味よ!)
騒がしい頭の中はさておき、夏花は屁を待ち構えられているこの状況に羞恥心と恐怖心を覚え始めていた。だが既に抗える状況ではなく、冬史郎は次々と嘘を重ねていった。
「えーっと『君は醜女だ』、『僕は毎日楽しい』! あとは……、『僕は君を愛している』」
(ひいぃ、もう、ここまでだっ……)
キリキリと張ってくる腹の痛みに耐えられず、夏花はそっと尻の力を緩めた。
――ブボッ
出してしまった……。かあっと顔が熱くなる。これまで隠し通して来た秘密を明かし、その上奉公先の主人の目の前で屁をこいてしまった。夏花の心は張り裂けそうだった。抑えていたものがジワッと視界を歪ませたが、目の前の光景にこぼれそうな涙はあっという間に引っ込んでいった。
「すうううっ、はぁぁぁ……」
「ひっ……」
夏花の肩を掴んだままの冬史郎は、まるで山の頂上にでもたどり着いたように大きく深呼吸をしていた。
――自分の屁を吸われている。
その行為に羞恥よりも気色悪さが込み上げ、夏花は思わず悲鳴をあげそうになった。しかし冬史郎はそんな夏花のことなど気にせず深呼吸を続けていた。
どれくらいそうしていたのだろう。ひとしきり深呼吸をした後、冬史郎はゆっくりと顔を上げた。
「うそ……」
思わず声を上げた夏花の目に映った冬史郎には、これまでの亡霊のような不気味さは全くなかった。肌も髪も艶があり、瞳には生気が宿っている。そこにいたのは作り物のように美しい姿をした青年だった。
「すごいっ! 最高だ! どうして気づかなかったんだろう! 君、名前は?」
「やまっ、山田、夏花ですっ」
「夏花っ! そうか、何年か前に入った子だ!」
とうとう植え込みを踏み越えて夏花側へ来てしまった冬史郎は、興奮した様子で夏花の手を遠慮なくガシっとつかんだ。そして次に冬史郎が叫んだ言葉に、残念ながら夏花の屁が湧き出ることはなかった。
「夏花、君の屁は清らかなんだ! お願いだ、ずっと僕のそばにいてくれ!」
「ひえっ……」
あまりの衝撃に夏花の記憶は一旦そこで途切れている。
しばらくして、ハッと我に返った夏花の目の前に冬史郎の姿はなかった。その代わり、夏花の足元には鼻から一筋の血を流し白目をむいた雇い主が倒れていたのだ。