17話
真正面から夏花が向き合うと、艶子は満足そうに笑ってみせた。
「うふふふ、嬉しいわ。あ、巴さん。お願いを聞いてくれてありがとう。後は二人で話したいから席を外してくれるかしら。それにあなたはやることがあるものね?」
「……はい。失礼いたします」
「あっ、巴ちゃ――」
艶子の言葉に巴は夏花を一瞥し、深々と頭を下げてから部屋を後にした。夏花は少なからずがっかりしていた。
(巴ちゃん、結局話せないままだった……。またすぐに会う機会を作らないと)
長引けば長引くほど誤解は深まってしまうだろう。多少無理をしてでも会う機会を作らなければいけないと夏花は心に決めた。
だがそんな夏花の思いなど知らぬ艶子は、この機会を逃さないとでも言うように夏花に真正面から向き合い、話し始めた。
「ねえ、もう一度聞くわ。冬史郎さんのお母上である深雪様の事をどこまで知っているの?」
「え? あ、いえ……使用人の噂程度でしか存じ上げません」
夏花は口を閉じた後、自分の喉がごくりと鳴ってしまったことに気づいた。艶子の口から予想外の話が飛び出したせいで、夏花の胸に違う種類の緊張が走ったのだ。
(奥様は私とご主人様との関係を誤解していて、その話をしにきたのかと思ったけど、奥様はそうじゃなかった? としたら、何をお話に来たのかしら)
艶子も夏花の喉が鳴ったことに気づいたらしい。その音をどう捉えたのか、獲物を見つけたかのように嬉しそうに顔をほころばせた。
「あら、そんなに固くならないで。冬史郎さんには絶対に言わないから安心して頂戴。約束するわ」
その言葉に夏花の腹は反応しなかった。ここで夏花が何を言ったとて、冬史郎に告げ口をするつもりはないらしい。
(そう言えば前回会った時も、奥様の言葉に嘘はなかった。屁が湧き出たのは、私が嘘をついたからだった……。でも――)
と、夏花は思った。夏花の主人は艶子ではなく冬史郎だ。
冬史郎の謝罪を受け入れ、月を一緒に眺めることになった夜、夏花は柄にもなく心に決めたのだ。
(私は出来ることならご主人様に誠実でありたい。奥様が嘘をついていないからといって、私は暇を出さずに雇い続けてくれているご主人様を信じたい……)
夏花は眉間と腹と尻に力を込めた。
(そのためなら、また私自身が嘘をつく必要もあるかもしれないわ。尻をいつもにも増して引き締めるわよ、夏花。いざとなったらすかしっ屁も発動よ)
きゅっと表情を引き締めた夏花に何を思ったのか、艶子は噴き出すように笑いだした。
「っふふふ、そんな難しい顔をされたら私が緊張しちゃうわ。冬史郎さんに『艶子と関わるな』とでも言われているの? 冬史郎さんはよほどあなたのことが大切なのね」
「いえ、ご主人様からは何も言われていません。それよりも私、奥様にご説明したいことが――」
「それならあなたと話しても良いのね、夏花さん?」
嘘をついたせいでキリキリと痛む腹に気づかぬふりをして、夏花はまっすぐ艶子を見つめ続けた。だが艶子は夏花に話をさせるつもりは無いようだった。
艶子は赤い唇をぺろりと舐めて、もったいぶったように口を開いた。
「冬史郎さんからはきっと話しづらいだろうから、“継母”である私が、“何も知らない”あなたに教えるわね。この家の“呪い食い”の事や、冬史郎さんのお母上――深雪様が死んだ時の事も……」
「――っ?」
息を飲んだ夏花に、艶子は満面の笑みを向けた。
§
「夏花……ほら、元気いっぱいの僕を見てくれ……」
よろよろと柱に縋りつくようにしながら障子を開けた冬史郎は、室内の光景にギョッとした。
どんよりと落ち込む夏花と、かける言葉もなくオロオロと困り顔をしている八尾の姿が冬史郎の目に飛び込んできたのだ。二人は呆気に取られている冬史郎に気づくと、それぞれに冬史郎を呼んだ。
「ご主人様……」
「冬史郎様……」
全財産を落としてしまったような絶望的な表情の二人の姿に、冬史郎は慌てふためいた。
「ふ、二人ともどうした? まるで通夜みたいじゃないか。というか八尾までこんなところで何をしている。途中でいなくなったと思ったら、夏花の所にいたのか。お前、僕に黙って夏花と何をしている――」
冬史郎は八尾に詰め寄った。それもそのはず、八尾は冬史郎の元に呪いの品を置いた後どこともなく姿を消してしまっていたのだ。“呪い食い”を行ったせいで亡霊のような姿になった冬史郎に詰め寄られた八尾は、申し訳なさそうに口を開いた。
「実は――」
「ご主人様。私を罰してください」
八尾の言葉を遮ったのは夏花だった。真っ青な顔をして、かなり動揺しているように見える。
「は? なぜ夏花を罰せなければならないんだ」
「私は奥様に、艶子様に……」
夏花は震える唇をようやくの思いでこじ開けているようだった。冬史郎は艶子の名が出てきたことに真っ先に疑問を覚えたが、夏花の真剣な様子に喉まで出掛かった疑問の声を飲み込んだ。
夏花は何度か口を開いては止め……を繰り返し、意を決したように冬史郎を見つめた。そして静かな声で語り始めた。
「私、奥様に……屁をぶっ放してしまいました」