16話
その日も夏花は冬史郎の部屋の掃除を終え、別室に控えている冬史郎を迎えに行こうとしていた。
(ご主人様は今日も“仕事”をすると言っていたから、きっと顔を合わせたら『屁をこけ』と命じられるのね。はっ! 私、いつの間にか人前で屁をこくことに抵抗がなくなっていない?)
廊下を歩きながら、夏花は自分の意識の変化に愕然とした。そのせいか、前から人が歩いてきていることに気づくのが遅れてしまったのだ。
「夏花……」
「――っはい!?」
不意にかけられた声に飛び上がって驚いた夏花は、自分の名を呼んだ人物を認めると、さらに驚いてしまった。
「巴ちゃん……っ!」
そこにいたのは巴だった。
座敷の掃除をしているところに艶子が現れ、冬史郎が怒りを見せたあの日以来、二人が顔を合わせることはなかった。夏花の反応に巴も居心地が悪そうに、しきりに腕をさすっている。
(あの時は何となく気まずいままで別れてしまったせいで、会えて嬉しいけどそれ以上に気まずい……。いや、でもこんな時こそ平常心よ)
夏花は驚き顔を笑顔に変え、巴に声をかけた。
「ひ、久しぶりだね……! 巴ちゃんとなかなか会えなかったから、どうしているかなって思っていたんだ」
どうしているのか気になっていたのは本当だ。それまで寝食共にしていた仲間なのに、急に会えなくなったのだから……。
だが夏花の言葉に巴は顔を曇らせるばかりだった。そこでようやく夏花は巴が冬史郎に恋心を抱いていたことを思い出した。
(そういえば巴ちゃんはご主人様のことが気になっていたんだった! 多分私とご主人様のことを勘違いしてるんだよね。早く訂正しないと……)
「あ、あのさ巴ちゃん。この前のことだけど――」
「夏花さんにお客様よ」
夏花の言葉を最後まで聞くことなく、巴は夏花への拒否感を露わにするような他人行儀な口調で来客を告げた。
「お客様? 私、誰とも約束していないけど……」
巴の態度はさておき、自分を訪ねてくるような人物に心当たりのなかった夏花は首をひねった。だが、巴は夏花に答えることなく、自分の仕事は終わったとばかりに無言で踵を返したので、夏花は慌てて後を追った。
通された部屋にいたのは艶子だった。
部屋の入口で固まる夏花に、艶子の瑞々しい唇はゆっくりと弧を描いてみせた。
「こんにちは、夏花さん」
「奥様……」
(どうして奥様が私に? 巴ちゃん、どうして?)
夏花は慌てて案内してきた巴に目を向けた。あの日、冬史郎が怒りを見せた場面に巴もいたはずだし、夏花を艶子に会わせる前に八尾に取り次ぐのが原則だろう。
しかし巴の顔からは表情が消え、夏花を見る目にも以前のような優しさは込められていなかった。
(巴ちゃん、やっぱり私とご主人様の事を……。どうにかして誤解を解かないと、このまま巴ちゃんに嫌われたままでいるなんて耐えられない)
「あ、あの巴ちゃ――」
「夏花さん、ちょっとお話してもいいかしら? もしかして冬史郎さんに怒られちゃう?」
巴に声をかけようとした夏花だったが、艶子の方が一足早かった。艶子が口にした「冬史郎さん」という単語に、無表情だった巴の口元がピクリと動いた。
「……い、いえ。大丈夫です」
巴の表情に夏花は察した。ここで「冬史郎に怒られるから、艶子との面会を断る」という選択肢は存在しない、と。
(奥様も巴ちゃんも、この前から私とご主人様の関係を誤解している。もしここで奥様とのお話を断ったら、二人が抱いている誤解を認めてしまうことになるわ。ということは、私に残されているのは……)
夏花は腹を決めた。
艶子の対面に用意された座布団を避けて膝をつくと、夏花は意を決して口を開いた。
「――それで、お話とは何でしょうか」
その言葉に艶子の目が満足そうにすっ、と細められた。
§
『巴さん、冬史郎さんを好ましく思ってくれているのね?』
数刻前、突然来訪した艶子に問われた巴は一気に血の気が引いた。
『も、申し訳ございませんっ! もう、そんなおこがましい事を考えることは――』
『良いのよ。ふふ、冬史郎さんも罪なお方ねぇ……』
巴の謝罪を遮り、艶子は嬉しそうに笑って見せた――がすぐに「ほぅ……」と悩まし気にため息をつき、眉根を寄せた。
『でも、冬史郎さんはあの子、夏花さんが大層お気に入りなのよね。苦しいわねぇ……』
『あ……そ、それは……』
艶子の言う通りだった。
夏花は人付き合いの悪い不思議な子だった。あまり多くを語らず、仕事の合間にいつの間にかいなくなっては、するっと戻ってくる。
だが素直な所が気に入って、巴は良く面倒を見ていた。夏花も段々と慣れて来たようで巴には気を許しているように思えたし、巴にとっては可愛い妹分のような存在だった。
(それなのに……知らないうちに冬史郎様にお近づきになっていて。私には何でも話してくれると思っていたのに、よりによってどうして……)
巴は胸の奥がじりじりと焦がされるような苦しさに、無意識に胸に手をやった。その手を優しく包むものがあった。染み一つない、滑らかな艶子の手だ。
『ねえ、巴さん。その苦しさ、夏花さんにもわかってもらったらどうかしら? 私良い方法を知っているの』
思いがけない言葉に巴が勢いよく顔を上げると、艶子の麗しいかんばせが視界いっぱいに広がっていた。