15話
少し良いでしょうか、と八尾が夏花の部屋を訪ねてきたのは月が昇り始めた頃だった。
部屋に戻った後、夏花はいつ丹羽家を離れても良いように室内を片付け、持ち物を風呂敷に包んでいた。風呂敷一つに収まってしまうのは少し寂しいが、下働きの持ち物などその程度だ。
夏花を訪ねて来た八尾はすっかり綺麗になった室内と、部屋の真ん中に置かれた風呂敷包みを見て眉をひそめたものの、その光景に言及することは無かった。
素直に部屋を出た夏花が、八尾に連れて行かれたのは裏庭の濡縁だった。
(……ご主人様)
そこには既に人の姿があった。冬史郎だ。
八尾と夏花が近づくと冬史郎はちらりとその存在を確認し、すぐに目を庭に向けてしまった。月明りに照らされたきれいな横顔は、わずかにむくれているようにも見える。
「では、私はここで……」
「えっ?」
八尾はそう言い残し音もなく立ち去ってしまい、縁側には夏花と冬史郎だけが残された。声をかけるにもさすがに夏花からというのは躊躇われる。
そうこうしているうちに雲が空を覆い、月を隠してしまった。
(ご主人様は黙ったままだし、何のために呼ばれたかわからないし、とにかく気まずい……)
夏花がなかなか口を開かない冬史郎に行くも戻るも出来ずにいると、ようやく声がかけられた。
「そこだと話ができない。もう少しこっちに来てくれないか」
「……はい、失礼します」
既に縁側に腰掛けている冬史郎から一人分隙間を空けて、夏花はおそるおそる腰を下ろしたものの、すぐに沈黙が落ちる。
(話があるんじゃなかったのかしら。ご主人様から言うのを躊躇っているなら、私の方から切り出した方がいいのかも……)
「あの――」
「少し、月でも見ないかと思って」
そう思った夏花は思い切って沈黙を破ったものの、ちょうど冬史郎も同時に話し始めてしまった。こうなれば冬史郎の言う通りにする他ない。
でも……、と思いながら夏花は空を見上げた。
「……曇っています」
「……まあ、そうだな」
冬史郎は気まずそうに顔を伏せてしまった。そしてその表情のまま再び口を開いた。
「八尾に『夏花に謝れ』と言われた」
夏花はぱちくりと冬史郎に目を向けた。顔を伏せたままの冬史郎は、全然謝るような態度に見えない。むしろ不機嫌そうにすら見える。その態度に少しムッとした夏花は、冬史郎と似た口調で答えた。
「下働きにご主人様が謝ることはありません。私こそ差し出がましいことを申しました」
「ま、まて違うっ! ……僕も謝りたいと思ったんだ」
夏花の返答を即座に否定した冬史郎は、ひとつため息をついて語り始めた。
「僕は穢れを清められる君がうらやましい。呪いを食うのは、正直言ってつらい事しかないからな」
夏花は以前冬史郎が“呪い食い”を見せてくれた時のことを思い返し、小さく身震いした。確かに魂が削られていくように、自分の身がやつれていくのは耐えがたいだろう。
「帝に正面切って呪いの品を渡す者はいない。皆、心のこもった贈り物として渡すんだよ。美しい外面に隠された悪意の塊を食うんだ。気分は最悪だ」
夏花はハッと冬史郎を見た。
雲に覆われた夜空を見上げる横顔は穏やかで、厳しい言葉との差に戸惑ってしまう。
「で、でもどうして……? どうしてご主人様が?」
「どうして? うーん……」
夏花の口から飛び出した素朴な疑問に冬史郎は首をひねった。
「なぜかはわからん。でも帝に仕えるようになったはるか昔からそうして来た。母も、祖父も、そのずっと昔から……」
だが冬史郎の答えは夏花が納得出来るものではなかった。夏花の屁と違い、冬史郎の“呪い食い”は自分で止めることも出来るはずだ。
「そんなにつらいなら止めては……」と言う言葉が喉まで出掛かったが、夏花はすんでのところで止めた。冬史郎が真剣な顔をしていたからだ。
「ここからが本題だが……」
(――来たっ! とうとう『暇を出す』と言われるんだ。急に帰ったら父ちゃんも母ちゃんもびっくりするだろうな……)
冬史郎の声に夏花は姿勢を正し、膝の上で手を握りしめる。冬史郎も若干緊張した面持ちで口を開いた。
「夏花、君も年頃の女性だ。屁を恥ずかしがる気持ちは理解しよう。でも僕には夏花の屁が必要だ。僕は夏花がいてくれると助かるんだ」
「……へ?」
予想外の冬史郎の言葉に、夏花の口からは意味のない声が出た。だが冬史郎にはそれで十分だったらしい。
「そうだ、屁だ。君が辞めたいというなら辞めてもいい。でも力を貸してほしい」
「あ、あの、私お暇を出されるのでは?」
驚く夏花に今度は冬史郎が驚いて見せた。
「なぜ暇を出す必要がある? むしろ君がいなくなることを考えると怖いんだ。……八尾には束縛だと言われたがな」
「束、縛……」
「縋り付いてみっともないが、本心だ」
冬史郎が本心というように夏花の腹は静かなままだ。
しょんぼりと肩を落とし、首を垂れる冬史郎は雨に打たれた子犬のようだった。八尾に頭ごなしに叱られた様子が思い起こされるようだ。
(ご主人様、そんなことを……。そこまで必要とされるのは使用人冥利に尽きるけど、でも……)
雇い主である冬史郎から必要とされていることに夏花は感激したものの、湧き上がる罪悪感を抑えることは出来なかった。
「私はご主人様に口出ししてしまいました。叱られても、暇を出されても当然の事です。私、本当に失礼なことを……」
「口出し? ああ、そうだな。でもあれは君の本心だっただろう?」
「え、ええ、まあ……」
夏花が不思議な気持ちで冬史郎の問いかけに答えると、そこでようやく冬史郎は笑顔を見せた。
「君だけには嘘をついてほしくないから、あれはあれで良い」
それは柔らかく、すぐに消えてしまいそうな儚い笑顔だった。
夏花は冬史郎の笑顔にそれ以上何も言えなくなってしまった。唇を固く結ぶと、ちょうど涼やかな風が頬を撫でた。
二人の間に光の筋が落ちる。最初に声を上げたのは冬史郎だった。
「ほら月がでたぞ。なんだか安心したら腹が減って来たな。八尾を呼んで夜食でも頼もうか」
「……少しは美しさを愛でませんか」
§
次の日からも冬史郎は変わらず“呪い食い”に励み、夏花に屁をこかせようと嘘をついた。だがそれまでのように冬史郎の嘘に夏花が心を痛める頻度は減っていた。
屁をこくのは恥ずかしいが、何とかやり過ごせるようになってきた頃、夏花は再び彼女に出会ったのだった。